酔醒石(すいせいせき)

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第十二回 狂える和尚は妄りに大宝を思い、愚かな術士は空しく逆謀を設ける

《烏夜啼》

夜の月、幾たびか春夏を経、夕陽には幾多の興亡があった。

営々と自ら、果てなき夢を作り、たやすく思案を費やす。

腐れた火炎は空しく光り輝かんとし、井の中の蛙は妄りに天を翔けんと願う。

駢首して悲しく燕市を眺め、血は青き土の上に滴り凝る。

古来より言い伝えるとおり、天意には定めたる帰するところがあり、大宝(皇位)はたやすく拠ることのできぬものだ。たとえば李衛公(李靖)や張虯髯公のような何たる英雄も、また隋が鹿(皇権)を失い群雄が角逐するまさにその時、手のひらを返すように天下を取れると自ら思い込んでいた。しかし李世民に相見えるや、一人は首を垂れて龍に従い、一人は海外に身を窜らせた。当時の李密もまた一代の豪傑ではあったが、ただ時務を知らず、唐に降ることを肯んぜず、たちまち捕縛されて滅んだ。況してや天下が統一され、太平無事の世にあって、区々たる小者がもって神器(帝位)を窃かに窺おうとするなど、卵を石に投ずるがごとく、たちどころに砕け散るのみ。しかしながら一つ言えることがある。天が一人の狂人を生み落とすとき、事が成ろうと成るまいと、生まれた時には必ず一つの吉兆があり、生まれつき一つの異相を備えている。さらに一群の妄人が集まれば、たちまち大事が引き起こされる。唐の明皇の時、并州の牧が夜の露天に座っていると、東南に一道の紅光を見て驚いて言った。「これは天子の気なり」と。翌日、民間で子の生まれた者を探し出してみたが、良い相の者はいなかった。また部曲(家臣)の中を調べると、一人の子が生まれており、見てみるとその相貌が甚だ異なっていた。州牧は「これは仮の天子だ」と言った。左右の者が「既に仮の天子とあれば、後日必ず謀反するでしょう。ここで殺してしまい、禍根を絶ってはいかがか」と言うと、州牧は「天の生み落とした者を、誰が殺せようか」と答えた。さて、この子は誰かといえば、即ち楊貴妃の義子・安禄山である。伝えるところによれば、安禄山は磨滅王の転生だという。それゆえ生霊を殺し傷つけ、天子を逃げさせて遷幸させ、ほとんど大事を成し遂げかけた。しかし結局は自身も死に、一族も滅び、乱賊の汚名を残すだけとなった。それでもまだある程度の事業を成し、いくつかの城池を占め、王と称し帝と称する機会もあった。それに比べて、何の因縁もなく、また太平盛世に際して、ただ方面大耳(四角顔で大きな耳)だからといって天生の帝王だと自ら称し、無頼の徒と結んで江山(天下)を占めようと企て、いまだ事を起こす前に縛り上げられる者がいる。齊萬年や宋江のように一時横行したにも及ばないとは、なんとも笑止なことではないか。

一命はたやすく誘えず、九重(宮中)をどうして幸い得ようか。楚を平らにしようとの先兆もむなしく、ただ血が碧の大地に凝るのみ。

さて成化年間のこと、保定府易州に侯という者がいた。彼に立柱児と呼ばれる息子が生まれた。生まれたその折、ちょうど隣家が家を建てており、向こう側で柱を立てているところだった。父親は「縁起の良い日に生まれた。大きくなれば、きっと国家のために天を支える碧玉柱となってくれよう」と言い、立柱児と名付けた。幼い頃から病気がちで、両親が仏寺に奉納しようとしたが、まだ肯んじていなかった。六歳で学問を始め、得権という名前をもらい、読書も上達した。ところが父母が相次いで病死し、頼るべき者がなくなった。隣家の金公という者が、父母の意向を受け継いで、彼を狼山の広壽寺に入れて僧にし、明果という名を授けた。剃髪してみれば、四角い顔に大きな耳、広い額に高い鼻と、真に異相の持ち主であった。二十歳を過ぎると、各地を行脚して天下の名師・善知識に会いたいと思い、身支度をして本寺の住持に別れを告げた。

笠は傾いて朝の月影を映し、下駄は砕けて暁の霜跡に残る。鉢を洗いに渓の流れを尋ね、禅を安んじて木の根に凭れる。

風雨に打たれ露に宿り、あらゆる艱苦を経て、河南の少林寺にたどり着いた。この寺は棍棒術の伝承で名高く、天下に知られていた。また明の仙人・周顛仙や、梁の達磨祖師も共に身を寄せた場所として、天下の名流が掛搭(逗留)する所であった。明果はそこに着いて住持に参じ、客間に落ち着いた。先に一人の道人が同室にいて、二人は挨拶を交わした。翌日、共に仏殿へ歩いていくと、外から一人の男が入ってきた。

髭は五筋に靡いて仙風を帯び、秋の水のごとく澄んだ瞳が輝く。

口は河が懸かるごとく波浪を湧かせ、英雄の多くが鑑衡の中に入りこんでゆく。

男は明果をじっと見て「良い相だ」と言った。明果は礼をして「先生は相学をされるのですか」と尋ねた。男は「少し心得がある程度で、星平(占星)が私の専門です」と言った。明果は「それならば客間で休咎(吉凶)をひとつ占っていただきたい」と言った。客間に着くと、先生は紙筆を取り出し、明果は自分の生辰を読み上げた。先生は手を一回し、八字を書き下した。大運を並べ終えて一見するや、はっとして大いに驚き「和尚よ、このような貴い命があるとは。この命相は富貴が絶倫で、威権は他に比するものなく、帝王の命だ。卿相の尊さなど及ばない。将来は妻あり子あり、貴くして九五(天子の位)に就き、天下を富有することとなる。命相は共に合っておる。ただ志を得る日には、小生・江朝のことをお忘れなきよう」と言った。明果は「小僧は一瓢一笠、雲水を友として旅し、富貴功名など夢にも考えたことがない。先生はお見間違いかと存じます」と言った。先生は「和尚よ、我が朝の太祖高皇帝は何者でしたか。かつて皇覚寺で僧となり、後に大宝(皇位)に就きました。和尚はまさにそれと同じです。事は人がするものです。学生もこれまで多くの命を算してきましたが、このような命は初めてお目にかかります。多くの人を算してきて、外れたことは一度もありません」と言った。思えば、江湖の占い師は一途に嘘を言って人を騙すもので、商人には全員が金持ち、千金万金と言い、読書人には全員が科挙合格、挙人進士と言う。しかし皇帝を以て人に許そうとする者はいなかった。この江朝はまことに正気を失った狂人というべきか。しかし人は阿諛奉承を受けた時、喜ばない者はいない。たとえできそうもないことであっても、最初は驚いてそんなことはないと言い、後にはやはり「この者がなぜ軽々しく自分に許すのか、もしかするとあるのかもしれない」と疑うようになるものだ。

本来は駑馬に過ぎないのに、妄りに駿馬に許される。槽の豆を食みながら長く嘶いて、それでも千里を思う。

明果は神を凝らし、微笑みを浮かべながら、心の中で考えた。どうして皇帝のような者が私に回ってくるのか。この先生の言葉には定めて理由があるに違いない。するとそこへ、こんな言葉を言い出した道人がいた。周道真という胡散臭い道人で、傍らで「今や真の主がいらっしゃる。北の方では皆が知っており、こちらにも書き記してある」と言い、自分の行囊から一冊の書を取り出した。そこには「陝西長安県曲江村、金盆李家に、母が十四月の懐胎で男子を産み、龍が生まれ、紅光が部屋に満ち、白蛇が巻きついた。長ずれば天子の分を受けるべし」と記されていた。皆が見た。周道人は「もし李子龍が真の主であれば、和尚もせいぜい公侯の命ですな」と言った。江術士は立ち上がり「このようなことをみだりに人に言えると思いますか。もし後に当たらなければ、私は命算をやめましょう。登基(即位)はただ丑の字の運、申酉の年にあります。鉄冠道人袁柳莊と名乗る私のこの言葉を信じなさい」と言った。明果は大いに喜び、銭を取り出して、酒屋でこの二人を招待し、すっかり酔わせた。明果は意気揚々と、自分を「太祖高皇帝」と確信し、江朝は自分を「鉄冠道人」と確信し、周道真もまた「劉伯溫」を夢見るようになった。

狂った男は無知にして、むやみに富貴の心を起こす。魚と水が嗟くほど合うと思うが、禍の林に入ることを知らぬ。

この二人の愚者は、ともに「富貴を忘れるな」と言い、明果に機を乗じて事を図るよう促した。明果は別れを告げた後、心の中でこう思った。江朝の言によれば自分は天子だが、周道人はまた真命天子は李子龍だと言っている。自分がいっそ「李子龍」と名乗れば、この真命は自分のものではないか。太祖も実は髪を蓄えて皇帝となったではないか。自分も髪を蓄えよう。初めは和尚として頭陀(苦行僧)を演じ、後で髪を束ねれば立派な好漢のようになれる。少林寺で棍棒をある程度身に付け、豪傑たちと交わろうとした。大体において北の人は勇猛で、義気を重んじる者は多いが、道理を知る者は少ない。一旦気概が立ち上がると、この事をするべきかどうか、この事はできるかどうか、できたとして良いことかどうかなどを量らない。たとえば患難の際に互いに助け合い、艱険を避けない、国のために忠義で死に、子として孝行のために死ぬ、これらはするべきことだ。できてもできなくてもよいことだ。だが兄弟・朋友のためにするとなると、恩を量り、彼のためにかえって彼を害することにならないか、できもしないことで自分まで害し、井戸に落ちた人を救おうとして自分も落ちるようなことにならないかを考えなければならない。するべきことでも、できること、してよいことかを考える必要がある。これは臆病ではない。書に曰く「父母の仇は天を共にせず、兄弟の仇は兵を返さず」とも、おのずと分があるのだ。

正気は持たねばならないが、客気(意気がり)は持つ必要はない。怒りを懲らしめるには一時のことを念ぜよ、明哲な者こそ善く判断できる。

もし一人の意気に任せて親友を凌辱し、官府に突進み、しょっちゅう拳で喧嘩し、訴訟を好んで勝ちを争うならば、これはするべからず、できもせず、したとしても良くないことだ。行凶して人を打ち殺し、不平を抱いて人を打ち殺すことも、いずれも無用のことだ。まして悪事をはたらき、さらには非分を望んで、あるいは人を集めて自ら首領となり、あるいは人に随って一味に加わり、王を謀り覇を奪うに至っては、なおさらすべきでなく、断じてできるものでなく、したとすれば謀反大逆の十悪不赦である。今の流賊(農民反乱)の後にまた白兵(刀を使う賊)が現れるのも、すべては気勢を尚ぶが道理を知らないがゆえだ。どんな因縁もなく天下を得たのは、明朝の太祖皇帝である。かつて元の人がモンゴルを率いて中国を統治し、順帝の荒淫失政に至り、また国人を知府知縣に使って中国民情に通じず、民を慰撫することができなかったゆえに民心が乱れを望んだ。まず這等の貪淫で見識のない者どもが先鋒となって天下を乱した。その後、民心はこの刀兵に倦み、殺さず淫さず、民を愛し士を尊ぶ者の登場を待ち望んでいた。それゆえ明の太祖皇帝は天心に順い人心に応えて、天下を得た。先に悪事を働いた者どもは、身は死に族は滅び、それだけの結果に終わった。

天心はいつも善を福とし、民の意は徳ある者に帰す。剛強は滅亡を招き、時を昧れば自ら賊となる。

聖帝は相次いで継承し、徳を失った者はいない。官吏の中に不肖の者はいても、良い者も多い。否極まって乱を思い、乱極まって治を望むなどとは言えない。これら愚かで猛悍な人々は知らないのだが、まして貪りをもって愚かさを済うとはなおさらのこと。一介の小民が国公・侯・伯を夢見て、互いに煽動し、狂妄で傲慢な一、二人を騙して引き込む。彼らにも自ずと知り合いがあり、気質の合う仲間がいる。彼は真定等の地で、すでに若干の無頼者を集めていた。李子龍はすでに何らかの見込みがついたと言っていた。また、人の命を算することもできず、自分の命を算することもできない、二人の術士がいて、黒山と呼ばれていた。彼の命を見て「猴(申)鶏(酉)鳳凰の交わるに遇えば、大命あり」と言った。しかし申酉の年はもう近づいており、事を図るのも猶予がなかった。黒山は李子龍の傍にあって謀主となり、この命運を使って人々を煽惑した。地方で腕力の強い者や財のある富翁がいれば、皆その命を算して大官・顕職に就くべき者と言い、内々で勾結(引き込む)した。この書物を読まない者どもが、どうして官を得られよう。武功によって得るほかない。いつしか彼の術中にはまってしまっていた。

一字も知らぬ愚か者が、簪纓(高位高官)の大志を抱く。簪纓などいかで図るべき、ただ災禍の縁を招くのみ。

また黒山と二人で相談した。「大事を図るには人が必要で、人を集めるには糧食が要る。外にはいくらかの人がいるが、烏合の衆に過ぎず、統率できない。財主(資産家)を後ろ盾にしなければ、事が起きた際に何の銭があるのか。今や京城には京軍が多く、近在の豪傑も多い。内部に人を得て援助させることができれば、器械も調達できる。いかなる家にも弓箭や槍刀がある。内側には家産のある者が多く、これらの者の心は掴みやすく、動かすことができる。若干の者を引き込めば、銭には事欠かない」と言い、入京しようとした。さらに方守真という道士を得た。これも分を守らぬ者で、「内側に楊道仙という軍匠がいる。家産が大きく、月糧(月俸)を給している。京師の貧しい軍士はみな彼を頼りにしており、彼の済急のおかげで軍士たちは皆彼に感激している。借財する者も多く、また平日から内廷の者と付き合いが多く、人に顔が立ち、付き合いが広い。四海(慷慨)な人物で豪傑の類の者だ」と言った。

虎や鰐が淵を得て、鷹や鳶が薮を得る。輦轂(都)の間に、この稂莠(雑草のような者ども)が植えられた。

黒山はこれを聞いて「喜ばしい喜ばしい。この大功は全て彼にかかっている。我々が人を心配すれば、彼はこれらの軍を結びつけられる。我々が銭を心配すれば、彼はまた富んだ内相知と顔が利く。彼は軍匠だから、器械の調達も難しくない。彼を訪ねなければならない」と言った。類は友を呼ぶとか、これらの死に値する愚か者どもは、自ずと集まり、意気投合した。楊道仙は李子龍を見て、生まれつき異相の持ち主だと思った。黒山は大いに称揚して「彼は豁達大度(度量が広い)で、世を経る奇才だ」と言った。李子龍はまた黒山の星術は天下に並ぶ者なしと称えた。楊道仙は自分の命運を持ち出すと、黒山は見て「見事な蟒衣玉帯(高位)の貴人の命です。李爺より若干劣りますが、虯髯公が李世民に遇ったようなものです。李爺の事業は楊爺が成し、楊爺の功名は李爺によって得られる」と言った。この時、楊道仙は李子龍の相貌を見て、自分より若干劣ると思っていた。黒山の言を聞いて、明らかに李子龍が主で自分は補佐だとわかった。笑って「李爺を頼みましょう」と言い、妻の命運を持ち出した。黒山は「この御方は一品夫人の命、こちらも蟒玉の勲貴です」と言った。これで楊道仙は心熱くなるほかなかった。

功名の心も言えば貪欲、手に龍剣を弾いて幾度か匣を離れんとする。知るべきか、才が韓信・彭越ほどかどうかを、むやみに茅を分け男爵を夢見る。

楊道仙は二人を家に留めた。果たして彼には内廷との往来があったが、あまり大きな出世をしていない。内使の鮑石・崔宏、長随の鄭忠・王鑒・常浩、司設監右少監の朱亮、門副の穆敬たちが来た。彼らは李子龍の四角顔に大耳、獅子鼻に剣眉を見て、やはり異人だと思った。李子龍はまた弁舌さわやかで滔々と尽きることがなかった。周道真が渡したあの妖書を手本に符をいくつか書いて「これを身に付ければ、災いを払い病を除けられる」と言った。黒山と楊道仙はさらに言い触らした。「彼は叫んで城を割り裂き、地を划いて川を成し、米を撒いて兵となし、草を剪って馬となし、剣を飛ばして人の首を取る非常の法術がある」と。大抵、豪傑には義気や功名を語り、凡庸な人には富貴や利害を語り、無知な者には鬼の話や奇怪な話をすれば、入り込まないことはない。これらの小内官は内書堂で書史を読んだことがないので、こんな根拠のない話がかえって彼らを驚かせ動かし、仏も敬われた。黒山と楊道仙は彼に「当今持世救苦抜災、好生止殺仏王如来」という号を贈り、「申酉の年になれば天下を改め、万民を治める。前もって漏らしたり、心を尽くして補佐しなければ、天神が誅殛(罰)する」と言った。これらの内官は、果たして誰も伝えようとはせず、ただ自分の懇意の者を引き連れて投拝させた。馬や鞍を持ってくる者、衣服を持ってくる者、金銀銭鈔も絶えず届いた。子龍はまた大言して「こんな臭いくだらない物、何の用になろうか。とりあえずここに置いて、お前たちの誠意を試そう」と言った。これらの内使は、最初は賓客として扱われていたが、後には皆が「仏爺」「上師」と呼んで叩頭するようになった。彼もまた平然と受け入れた。ある日、鮑石たちが彼を内廷に連れて見物させた。万歳山の小殿に行くと、上には龍牀(天子の床)が一つ置かれているだけだった。彼は歩き疲れて、悠々とその上に腰を下ろし「我々には自ずと金台・銀台、蓮花宝座があるのに、どうしてこんな座があろうか。しかし天がこの世の生霊のために我を降ろされたからには、やがて必ずここに座ることになろう」と言った。

鷦鷯(小鳥)は高い枝を占め、井の鮒は瑶池を泳ごうとする。その処するところは嘆くに拠るべきでなく、狂人には遠い思慮がない。

これらの内臣たちは「仏爺が宝位にお就きになれば、奴婢どもも極楽世界に登ったも同然でございます」と言った。しばらく座った後、皇城を出た。見た者は誰も彼を非難することなく、かえって果たして天子の福分があり、普通の人であれば折れ死んでいたであろうところを、だから彼への尊信がますます高まったのだ。李子龍と黒山・楊道仙の三人は相談した。「内応と外合わせの二件は欠くことができない。内側にはこれらの内臣がいる。外側は真定の各処を頼む。しかしこれらの豪傑は遠すぎる。さらに京城に武官を一人得て、これらの京軍と助け合わなければならない」と考え、羽林百戸の朱廣を思いついた。彼は鮑石の親戚で、小旗の王原は鄭忠の親戚だったので、二人に頼んで仲間に誘わせた。この二人は果たして来て門下に拝し、機が来た際に人を集めて応じることを約した。

簪纓の家は恩を浴びてきたのに、披瀝(誠心)を存すべきではないか。何ゆえ逆らうことを甘んじ、後昆(子孫)に殃を遺すのか。

その頃、御馬監の太監・韋含という者がいた。司礼監にはいないが、聖上のそばに最も近く、権勢があり、家産もあった。鮑石は元々彼の門下の者だった。韋含がたまたまちょっとした病に罹り、鮑石のために李子龍から符水をもらって療病させると、意外にも治ったので、太監は大いに子龍に感謝し、銭を持って礼に来て、また酒席を設けて招待した。彼の一見立派な人材を見て大いに喜び、互いに往来するようになった。楊道仙は言った。「よかった。この人が来てくれれば、銭もあり権勢もある。我々の事業の大半は彼にかかっている。ただこの人は平日から少し道理を知り、行動は軽率でない。もしこの謀反のことを話したとしても、彼は肯んじないだろう。しかも我々は富貴を望んでいるが、彼は既に富み、既に貴い。どうしてこのような危険なことをするか。もし一旦従わず、機密が漏れれば、害は小さくない。策を使って彼を引き込まなければならない」と言った。黒山は「楊爺、あなたが最も策に長けている。あなたが策を立ててください」と言った。楊道仙はしばらく考えて「あります。彼には韋喜という弟の韋老二がいる。この人は直情径行の人で、鮑石と最も仲が良い。彼には十六歳になる娘がいて、ずっと韋大監が手元に置いて婿を探していた。しかし文官の秀才では中貴人と結婚したがらない。武官は勳戚が多く、これも望まない。商人富戸では大監も望まない。太監は先ほど李大哥の人材が優れているのを見て、大いに敬重していた。今は鮑石を使って、まず韋老二に話し、後で太監に話す。事が成就すれば、彼の親戚として休戚がともに関わるから、彼が従わないわけがない」と言った。李子龍は「妻を娶るとなると、我々の上師の行跡に相応しくないのではないか」と言った。黒山は「我々には自ずと彼を動かす話がある」と言った。

自ら酈食其(弁士)を擬して、弁舌で斉の地を降そうとした。どうして中変があることを慮らん、延頸して鼎に入り烹られる。

ちょうど鮑石が来て楊道仙に会い「韋公公は上師を大いに敬重され、常人ではないとおっしゃっています」と言った。黒山は「この事は公公のお力にかかっています」と言った。楊道仙は言った。「近日少しおかしな様子がある。上師が『皇帝など何が良いことか、煩わしいだけだ』とおっしゃり、嫌がっている様子がある。我々の国公・侯・伯は手に入りそうになっているのに、もし翩然と去ってしまえば、我々のことはすべて失敗する。財物や服飾は身外の物として全く気に留めておられない。彼を引き止めるために、女色を使うほかない。娼婦は邪淫だから、彼は肯んじないだろう。彼のために正妻を娶るほかない。これには福ある女子を得なければならず、また皇親国戚になれる家柄でなければならない。我々には適切な子女や親戚がいないので、焦っている」と言った。鮑石は「上師は仏なのに、どうして奥方が要るのですか」と言った。黒山は「昔、鳩摩羅什は古仏であったが、西秦王が十人の宮女を送り、一度情を交わして二子を生んだ。これには故事があるのです」と言った。鮑石は「それでは韋老公に姪御さんがおられる。私はかつて見たことがあるが、大変福相のある方だ。老公は上師を重んじておられるから、先に老二に話し、老公に話してこの縁組を整えましょう」と言った。

小鳥は鳳に附こうとし、鮒や鯉は龍に乗ろうと願う。茅葺きの家の下に、灯影が輝くと思い描く。

黒山は「韋老公は上師を重んじてはいても、我々の今までの企みを彼に話すべきではない。ただ上師の貴相を言い、いつの日か老公が少しでも引き立ててくだされば、文官ならば卿銜(高位)の中書にもなれ、武官ならば錦衣指揮に定まるだろうと言ってはどうか」と言った。鮑石は「あなたの言う通りにします」と言った。韋老二は「老公に頼もう」と言い、老公に話すと、老公は彼の来歴をさほど問わず「この人は立派な人柄で、私が世話をすれば、この紗帽(官職)くらいは手に入れさせてやれる。姪娘も大きくなったし、財礼も要らずに与えようか」と言い、さらに東華門外の宅邸一つ、千金の嫁入り道具を与え、日を選んで婚礼を行った。

葦は折れて流れに随い、ぷかぷかと行ったり来たりする。いつしか蓮の花が咲き出でて、流れの傍に繁る。

以前は楊道仙の家にいた時は、素性の知れない流れ者であったが、今や太監の親戚となった。毎日、高い馬に乗り、大きな着物を纏い、奴僕を呼びつかい、人々と往来した。思えば、一介の小人として、貧しさゆえに和尚になって行脚し、住まいもなかった者が、今や妻を得て銭財を使えるようになれば、足るを知って手を引くことができたはずだ。しかし彼が休もうとしても、富貴を望むこれらの者が休ませてくれない。あちらは人を引き連れて拝投させ、こちらは人を誘って仲間に入れる。あちらの飽くことを知らぬ腸はうずうずして、申酉の年のことを思い、この集団を断ち切ることを肯んじなかった。そのためこの事はだんだんと明るみに出てきた。その頃、錦衣衛の校尉・孫賢がいて、貧しい軍士・甘孝と隣り合っていた。この貧しい軍士はなんとも貧乏で、いつも妻子と共に飢えをしのいでいた。妻の恨み言に対し「まあいい。もう半年か三ヵ月辛抱して、彼について走れば、百戸(百人隊長)がもらえて、正七品の俸もお前と私には十分だ。もう少し辛抱しろ」と言った。孫賢はこれを聞き、翌日「老甘、何かいい話があれば、私も仲間に入れてくれ」と言った。甘孝は「私に声をかけてくださるなら、私は何をしてさしあげましょう」と言った。孫賢は「兄弟、船が多くても港は広い。もし良いことがあれば、あなたを忘れません」と言った。この者が酒好きと知って、夕方に烧刀子三分、牛肉二分分買い、彼を招待して指示を求めた。彼は数杯飲んで大言壮語し「自分は連れて行けないが、こちらに李上師という方がいて、あなたを引き立ててくれる。明日かならずお連れして、門下に拝させる。必ず良い目に遭えるから」と言った。

酒は外から入り、機密は内から漏れる。悔いは醒めてから生じ、四頭立ての馬も舌には及ばず。

翌日、孫賢が来て迎えた。甘孝は口を閉ざして話さず、数日誘われてやっと連れて行って引き合わせた。叩頭して誓いを立てさせた。「一心一体に上師を補佐し、生霊を救い、退き悔いることなし。二心を抱けば、剣を飛ばして体を切り裂き、一家皆殺しにせん」と。孫賢もやむなく誓いを立てて、人混みの中に紛れた。まず内廷と往来する者を皆よく把握した。東に探り西に探って、これが謀反であることを知り、己酉年七月、申酉(猿鶏)の時節に内外呼応して先に京城を制することを決めた。この時、韋太監は李子龍のために中書職を得ようとして老二と話し合っていた。老二は「兄者、彼はもっと大きなことを望んでいる。そんな芥子粒のような官では駄目だ」と言った。韋太監は「では何の官を望んでいるのか」と言った。老二は「官を管轄する者を望んでいる」と言い、韋太監にそっと打ち明けた。「彼の命と相貌は、真命天子に合致する。外ではすべて整い、内にも人がある。あと一臂の力が必要だ。事が成れば、我々は言うまでもなく国戚だけでなく、功臣でもある」と言った。太監はこの言葉を聞いて。

舌が下りてこず、口が閉じて声が出ない。驚きの汗が雨のように落ち、魂がほとんど飛び去ろうとした。

韋太監は正に言葉が出なかった。老二は「兄者、この事はもうあなた次第ではない。彼を助けてやれば、良いことがある。助けなければ、できなくなってしまっても、あなたも逃れられない」と言った。韋太監は聞いて、また驚き又怒った。大騒ぎして明るみに出したくもない。彼に従ってやらせるとなれば、自分は朝廷の寵臣で蟒衣玉帯、富貴極まった者が、こんな事を考えるとは、滅門の大禍を招くだけだ。しかし先に姪娘を軽々しく与えてしまったから、本当に抜け出せない。正に悶々として不快でいる中、李子龍と楊道仙はひそかに赭黄の袍と翼善冠を仕立て、まるで芝居の出演者のごとく、ただ鑼鼓が上がるのを待つだけだった。すでに身に黄袍を加えようとして、袖の中の禪詔(即位の詔)を待ちわびた。

しかしこの京師では、かつて曹吉祥の叔甥が反乱を起こしたことがある。叔は禁中にいて、甥は三、四人おり、もともと家に達官の異族や家丁を養っていたが、事を成し遂げられなかった。況してやこの数人の閑冷な内臣、少数の武官、若干の貧しい軍士で、事を成そうというのか。孫賢はとうに彼らの事を確かめ、衛印を掌る指揮・袁彬に密告していた。たちまち李子龍を捕らえ、黄袍を捜し出した。また楊道仙・黒山も捕らえた。この時、黄袍こそが謀反の証拠となった。この袁彬は砂漠でともに龍に従って官を得た者で、忠厚な人だった。他の者であれば、大きな功績を立てようとして大きな獄事に仕立て上げたであろうが、彼はそうしなかった。しかも事が内廷の人に関わるため、必ず請い托って来るに違いないと思い、あまり広く連座させなかった。彼は言った。「師匠の門下に拝した者たちは、単なる無知な貧民に過ぎない。謀反と言っても、密謀はまだ実行されておらず、若干の狂妄な者が策略を立てたに過ぎない。親戚でも知らない者がいるくらいだ。どうしてこのような愚かな者たちにまで罪を着せられようか」と。よく主君の徳を尊んで、網を三分の一緩めた。茅と兔は連なって引き抜かれず、芙蓉が匣から抜け出すことができた。朱廣は職官、鮑石は隠しようがなかった。只得具疏題参、简単な招由(供述)を上奏した。結局事が内廷の者に関わり、手段が大きく、融通が利き、聖旨も厳しくなかった。しかし事はすでに三法司に及んだ。韋太監は思った。李子龍が謀反を企てたのは事実だ。自分はその至近の親族だ。衛中ではかくまってもらえたが、法司では隠せないだろう。これらの科道(監察官)の口舌は厳しい。彼が一本の題疏を書いて、私が近臣でありながら謀反者と往来していたと言えば、どうなる。聖上に知られれば、打問されて斬首されるくらいなら、いっそ先に死んで、完全な屍を得る方がいい。そして服毒して自死した。

身を日月(天子)の下に置いて、富貴もまた何を求めようか。恥ずかしい、寒灰(死んだ炎)の中に溺れ、南冠(囚われ人)となって楚の囚人に倣う。

哀れなことに、この韋太監は人に誤られただけだった。あの一群の者が法司に来ると、初招(最初の供述)がとりあえずあり、司官もただ衛の招(証言)に沿って少し審語を加えて堂上に上げた。堂上は具題した。「李子龍・楊道仙・黒山・朱廣・鮑石の五人は謀の首謀者。崔宏・鄭忠・王鑒・常浩・宋亮・穆敬・王原は従犯で、皆死刑を申請する。江朝・周道真・方守真ら一同は照会のうえ召喚する」と。しかし聖上は寛仁であり、この一群の者が狂誕にして自ら身を滅ぼし、これら内廷の員も愚鈍にして人に惑わされたと知り、ただ首謀者の李子龍ら五人を即決で斬首し、崔宏の一党は浄軍(去勢軍)に充て、王原は衛に移し、其余は審議通りとした。笑えるのは、李子龍が狂人として妄りに九五(天子の位)を望み、楊道仙・黒山・朱廣が侯伯元勛を望み、鮑石も大司礼(宦官最高位)を手に入れようとしたのに、結局は。

籠を開けて主の恩は渥く(篤く)、誇り高く、愚かな面を笑う。富貴は今いずこ、屍は古道のほとりに横たわる。

果たして刑科の雷給事が言った。「鮑石らは内外に通じ、謀反不軌を企て、悪は極まり罪は大きく、情は重く法は軽い。狂謀を懲らしめ国法を明らかにするには足りない。原案で死刑とされた王原らを皆斬首されるよう請う」と。聖上もただ寛大に「事はすでに処理したので、深く追求するに及ばず」と言った。これは内廷の力が大きいからでもあるが、連座を一株に留め、京城中のこれらの投拝した軍民、外辺で平日に交わした無頼の者たちを追捕すれば、また多くの事が起きてしまうからでもあった。

首謀者への刑は厳しく、協力した者への法は寛大に。影を追い風を捕まえるようなことをせず、騒動をできる限り抑えた。

思えば、四民の中で、士は官になることを図り、農は家業を守ることを図り、工商は利益を得ることを図る、これで十分だ。九流(さまざまな職業の者)については、たとえ一定の口先で銭を稼いで生計を立てるにしても、言葉は道理に従わなければならない。僧道の上位の者は明心見性・養性修真をもって生死を了する。下等の者は経を誦し聖を祝って余生を凌ぐ。これこそ明朝の太祖高皇帝の仰せになった「各々生業を安んじて、非為をなすべからず」という言葉である。星相の者(占い師)が妄りに皇帝を一人に約束し、一人の游食の僧が皇帝になることを望むなど、論外だ。楊道仙は富家でありながら官を得ようとせず、自分の家産だけで安泰だったはずだ。朱廣は世職(世襲の職)で高位には就けなくても、この世代から伝わる紗帽を保ち続けることができた。鮑石は内臣として職業もあった。なぜか彼らはふらふらと頭が狂って、ついに身を失うに至ったのか。これら妖妄の言は、断じて聞いてはならない。人は貧窮して餓死しようとも、良民であるほうがよい。もしこれら一群の者のように、斬首を受け、さらに謀反者の悪名を得るとしたら、何と笑止なことではないか。ゆえに百姓(庶民)たる者は、皆勤勉に慎み身を守り、それぞれの生業を守って、身と家を全うすべし。まだ来ていない富貴功名を望んで、かえって今目の前にある家や妻子を失うようなことがあってはならない。