第十四回 待ちきれずして墓前の新たなる恥を招き 窮すれど連なりて巍科を掇う
会稽の一抔の土よ、見る者みな恥を残す。
貧賤はまた常の情、なぜ怨みを生じさせるのか。
時来たりてもこれを待てず、足を踏み外して鷹や鷂の仲間となる。
風の底に漂う花のように、元の枝に返ることはいかに。
いたずらに溝の傍らで命を落とし、彤管に書き留めらるる恥も拾えず。
願わくば同衾を戒めとして、士女の流よ、励めよ。
貧賤と富貴の交わりは、男子にとっても見極めがたいものである。それゆえ寒窓で腕を組み、書斎で悲歌を詠んで、三通もの上書を書き、幾度も門を叩いた。名は互いに妬み合い、利は互いに傾け合う。弾冠を笑顔でつけ合う者などほとんどいない。科挙試験を前にすれば、有力な後ろ盾と強い推薦がほしくて、同好の友も同窓の友も顧みない。ひとたび欠員が出れば、誰よりも早く手をつけ先に人を差し向けることしか考えず、同年輩の者も同じ衙門の者も眼中にない。老いを嘆き卑賤を歎く一念が、朋友を疎遠にするところまで来ている。貧賤の中で荊布を共にしていても、いざ頭角を現せば妾を蓄えて淫に耽り、甚だしきは妻と反目するまでになる。伴侣に薄いなど、それでよいはずがあろうか。晋の会稽王道子、宋の丞相蔡京は、権勢で父子兄弟を仇のように追い詰めた。安んじて貧賤にいられない人が、果たして国のために尽くせるだろうか。
数年間、首をすくめて寒窓に向かい、ただ朱紫(官位)を得ることだけを心がける。
一旦意気が伸びれば、青史に恥を残すことも顧みない。
卑賤に安んじられぬ心こそが、五倫を蝕む害虫である。王敦・桓玄のごとく名分を侵して謀反・篡位を企て、まず僚友を傷つけ、次に君上を陵し、最後には祖宗の宗廟を絶やし、妻子兄弟の族まで殺された。彼らを栄えさせようとして、かえって辱めることになり、幸せにしようとして、かえって害することになった。すべては暮年になっても壮心が衰えずにいたこと、老いを嘆き卑賤を怒ることから来ている。
古来より舜と跖の歩む道は分かれており、それはただ義と利の岐路にかかっている。ここで少しでも誤れば、衣冠を纏った牛馬に他ならない。
婦人となれば、文字を読み道理を解する者は少なく、いかに大きな見識と自持心を持てようか。しかも飢えや寒さに追い詰められ、他人と比べられ、傍らから嘲笑を受けることも絶えず、親族の炎涼(温かさと冷たさ)にも耐えなければならない。榜上の名前を確かめることもできず、身に青い生員の袍一枚もかけてもらえず、折々に試験でうまく行かぬ夫を励ますこともできないとあれば、痛哭したくもなろう。どうして怨み嘆かずにいられようか。しかし「餓死は小事、失節は大事」と言う。目の前に窮した秀才がまだ生きているのに、他の男に走れば、旦夕の夫婦の情はどこに行ったのか。倫理を蔑ろにすることも甚だしい。朱買臣の妻が千古の笑い者となったのはこのためである。
貧賤はまことに悲しきことながら、夫婦の縁は薄くはない。溝の水がたちまち東西に分かれては、惜しいことに過ちを鋳直す方法もない。
先の朝のことであるが、淮南の地方に伝わる話がある。莫翁という老人がいた。子はなく、女が三人いた。上の二人は前妻の子で、一人は同村の財産家の息子、姓は蔣、蔣大郎に嫁ぎ、一人は同県の県吏、姓は韓、韓提控に嫁いだ。三番目の娘だけが後妻の子で、生まれつき十分な器量があり、眉は細く額は広く、歯は白く目は輝いていた。誰もが福ある人だと言った。女工の針仕事もすべてに通じ、大変賢かった。父母は「普通の人の妻になる器量ではない、きっと旧家の文士を探さねば」と言っていた。ある日、同県の新たな秀才の中に、姓は蘇という者がいた。その祖父は孝廉(科挙合格者)で通判を務め、父も秀才であった。官宦の家ではあったが、祖父は清廉な官に甘んじ、父も前半生を公子として経営を怠り、後半生は迂儒となって経営しようにも知らず、田産はほとんど尽きて、ただ何冊かの本だけが残っていた。その息子は二句ほど読んで秀才になった。莫翁はその若者の姿かたちが整っており、旧家の出と見て、人を頼んで婿養子にと申し入れた。蘇秀才は断った、俗流だと嫌って。しかし莫家が三度も仲人を立てて粘り強く説得し、ようやくまとまった。黄河の州で翡翠が翼を連ね、秦の館で玉の笛が並ぶように、蘇家はいくらか工面して聘礼を整えた。丈母(義母)はたくさん持参金を持たせたかったが、莫翁は「文人の家はきらびやかなことを好まぬ、後日に田を何畝か与えればよい」と言った。それゆえ持参金も並の程度だった。
婚礼を済ませてほどなくして、莫翁は突然中風で倒れた。上の二人の娘が駆けつけてきて家財を奪い合い、蔣大郎と韓提控が手を組んだ。韓提控は家族を連れて住居を占領し、蔣大郎は田地をすべて接収して小作料を取り、さらに義母と小姑を責めて、財産は皆母子が隠したものだから均分すべきだと騒いだ。義母は蘇の若秀才に告訴するよう促したが、老秀才は「書物の中に黄金の部屋があり、千種の食糧がある。争ってどうする」と言い、若秀才は声を上げられなかった。財産を得た二家は、冬の米を夏まで蓄えて利を取り、夏の銀を冬まで貸して増やした。資産を得た者は書弁の役職を買い、一年に昇進し、二年に良いポストを求め、三年で転籍して好い部署に収まった。良い衣服に乗り物を誇り、貧しい儒者など歯牙にもかけない。
年が凶作であっても商人は富み、時が窮するほど酷吏は尊ばれる。溝の小魚は生き、かえって北溟の鯤(大魚)を笑う。
ただ莫翁の族弟の莫甫軒だけが、蘇秀才が財利を顧みないのを見て「この人にはいつか出世の日が来る」と言っていた。しかし蘇秀才の家では父も亡くなり、葬儀の費用がかかった。義母も亡くなり、二人の義兄弟は「あちらの実の義母のことで、我々の関わることではない」と言って、また収殮の費用を自分で賄うことになった。手元はますます窮した。四方の壁のみの相如(司馬相如)のような困窮、空の袋の杜甫のような貧しさ。家に収入の口がなく、教師をしようとしたが、年が若くて学力が浅く、老成していない、礼儀が足りないと言われて、誰も招いてくれなかった。莫南軒がいろいろ手を尽くして、周鴻臚の家で伴読の仕事を得させた。一年で五・六両に過ぎないが、自分の衣食は賄えた。そこへ赴くと、夜明けから声を絶やさず読書した。それで周の公子が嫌になって言った。「兄、小弟がお招きしたのはただ気持ちを示したいばかりなのです。こんなに熱心では小弟が落ち着けません。」友人たちとともに文章を作ることもあり、二題出されて午後まで書き続けても何を書いたか定かではなく「明日補えばいい、まず酒を飲もう」と言って紙と筆を取り上げてしまう。酒を飲めば必ず歌い明かすことになる。蘇秀才は深酒もできず、歌も歌えず、いつも迂固で興冷ましだと言われた。また娼家遊びにも言い訳を作って断り、変わり者で人の助けにならないと言われた。主人が館に来ないのに、伴読がひとり坐っていても仕方がない。いても食事が不定期で、従僕も怠慢になる。追い出すでもなく自然と居場所をなくして、立ち去ることになった。
衆が酔う中で醒めているのは難しく、賢い者は疎まれることも多い。枸株(まがった木)は寧越(古人)を笑い、住む場所を占おうとしない。
家に帰ってみると、周の公子は日数まで数えて、修金の半分しか送ってこなかった。自分では学問を怠りたくなく、また結会(勉強仲間)に加わった。当番が回ってくれば、ひきがえるが田螺の仲間で一杯食らうように、莫氏の針仕事の売り物を典当に出さなければならなかった。一杯の食事にしても、蘇秀才は「粗食は儒者のならい」と言うが、莫氏は「それなりの体面があります、少しくらいの肉料理も必要です」と言い、皆が彼女に頼った。家の日常の衣食、親戚との小さな礼儀は、みな女手でやりくりした。
経営は儒者には不得手で、内助のよき人に頼る。前賢の打ち草や薦(むしろ)を織った話も、芳名は朽ちることがない。
入門してほどなくして父の喪(外艱)に遭い、一科を棒に振った。喪が明けて復学すると、学師への礼もかかる。辛うじて工面したが、幸い類考の年であったため、府縣の試験を経ずに科挙の名簿に名を得た。最初は草廬の意気込みで、解元(第一位)を自分のものにするつもりでいた。自分で題を探し、時策を選び、表文と判文を読んで、夜半まで眠らなかった。女房には、家事を分担させてはならぬと心配を抱かせず、薪も米も足りなくなっても少しも知らせなかった。彼のために青い毛縁の道袍・毛縁の袴・フェルトの衫を作り、人参を換金し、南京往復の路銀も、土を掘り天に訴えるような努力で工面した。試場に入る前には親戚が贈り物を送り、入場後には様子を伺いに来た。普段は全く冷淡だった義兄弟たちさえも親しく近づいてきた。莫氏は大いに喜んだ。試場から戻ると毎日酒が振る舞われた。家でゆっくりしている間、莫氏は部屋の手狭さを計算して、「一度受かれば別に家を借りなければ。家人も数人増やさないと。今日の不足分はどこかから融通できる。力を貸してくれる親戚もきっといる」と、喜びを眉の上に常に載せていた。報告の日が近づくと、門の前を掃き清めて、普段着の清潔なものを着た。通りを急ぎ足で行く人を見ると、戸の隙間から首を出して引き入れようとしたが、なかなか入ってこなかった。やがて誰々が受かった、誰々が受かったという噂が聞こえてきて、夫だけが受からなかった。大変不満だった。蘇秀才はただ大言を吐いて慰めるしかなかった。「八・九の出来のものはみんな落ちた。私は足紋銀(純銀)だから、使えないはずがない。ただ三年待ってくれれば。」
時に遭わざること、いかんせん。小窓の一杯の酒でしばし高歌を歌う。干将もいつかは竜になる日が来る、よく華陰の土で磨き続けよ。
蘇秀才は一等に合格して科挙の名もでき、名士として塾を探せるようになった。しかし良い塾はどこも人が占めていて動かなかった。塾を得るにはこつがある。第一に大きな傘と広い駕籠、盛装と美しい童僕を連れて、今日は某老師を拝し、明日は某名士を招いて、小さな試験で前列に名を入れ、堂々とした気象で主家を驚かせ、生徒を圧服して軽く扱われないようにする。第二に謙遜小心、口三回ごとに返事して主人と生徒を奉承する。文を書けば何文字も丸をつけて全て素晴らしいと言い、「お坊ちゃんは必ず高い試験に受かり、ご主人はきっと封翁(父の称号)になられましょう」と言い、飯を運ぶ下僕の前でも愛想よく、柔媚で人の心を動かして手離されないようにする。最低限として主人の鷹犬となり、生徒の遊び仲間となり、主人の訴訟や事務を代行し、生徒の賭博・嫖遊・運動の手助けをすれば、それでも留まることができる。蘇秀才は真面目な人で、この三つの道には進まなかった。塾を取ることも、塾に居続けることもできず、一年目に盛んだったのが、二年目にはだんだん客が減った。
おべっかはすでに習慣となり、名分の紐で縛ることは難しい。「都都平丈我(でたらめなお追従の言葉)」と言えば、はじめて袋の中が潤う。
幸い二人分の生活費は少なく、何とか支え合うことができた。また府の試験も季試も、近頃は名ばかりとなり、いくらの褒賞もなかった。しかし彼は貧しいことで名が立っており、按察使が赴任のたびに燈油補助として学中から包みをもらい、幾らか工面することができた。月々をやり過ごしてまた科挙の季節になった。競争の時節に府縣どちらでも人情(金品での依頼)が必要だった。彼は仕方なく府に向けて「以前道の一等でございました、若年ではございますが志があります、どうかご採用ください」という申請書を提出した。府は一名分の席を与え、道から三等第二の評価をもらった。幸い科挙の決定が早く、前の方で病死した者と丁憂の者が出て、補欠で一名に入った。夫婦で最初は落胆していたが、二等の科挙の席を得て、この時は運がよかったとまた拳を磨いて、今度こそ受かるだろうと期待した。南京へ出発するにあたり、莫氏は言った。「一度目は知らず、二度目は慣れたもの。今度こそ挙人に受かって、わたくしに顔を立ててください。」蘇秀才は「必ずそうします」と言った。前に蘇秀才が南京で郷試を受けた時、家に人がなく、莫家の叔母に頼んで付き添ってもらっていた。今回も同じく頼んだ。
ある夜、夢の中でめそめそと泣き出した。叔母が問うと「夢で夫が受からなかったと聞いて、悲しくなりました」と言った。叔母は「夢で死ねば生に転じ、夢で凶事は吉事になる。夢で落ちたということはきっと受かる」と言った。莫氏はそれでもやはり気が晴れなかった。
禍福はそんなに気にするものか、魂魄まで驚かせて。いつになったら鵬に変わって飛び去り、閨の中のこの思いを慰められるか。
翌日、蘇秀才が帰ってきて言った。「今度は三つの書題がすべて当たり、経題も二篇が以前やったもので、二篇は暗記していた。これは必ず受かる。」莫氏は「それでは叔母さんの夢解きは当たりだった。叔母さん、もう少し手伝ってください」と言い、天にも昇るような喜びで知らせを待った。しかしまたも別の家に知らせが行って、こちらに来なかった。前回は夢の中で泣き、今回は昼日中に泣き崩れた。蘇秀才も長いため息をついて「また三年やって駄目だった」と言った。莫氏は泣き崩れてから立ち上がり、両眉を剔立て、目を怒らせて言った。「人の一生に幾つの三年があるというの!この貧乏、どうしたらいいの!」また泣き出した。蘇秀才はもともと気が滅入っているのに、これほど責め立てられてはたまらない。仕方なく外へ出て、叔母に彼女を慰めてもらうほかなかった。
真の蘇季(蘇秦)のような零落よ、悲しみを抱えて機を降りられない。抱朴者にも、清らかな涙が羅衣を濡らすことがある。
それからというもの、ただため息と鬱憤ばかりで、蘇秀才の衣食の世話を一切しなくなった。顔を合わせれば貧乏についてぶつぶつ言い、彼が衣服に金を使ったと責めた。蘇秀才はこの頃ようやく小さな塾を得て、毎日館の中に泊まって彼女を避けていた。人の意気は激励されれば盛んになるが、家でこれほど打ち砕かれていては、教書にも身が入らず、試験も怠惰になり、塾も塾らしくなく、試験への意欲も萎えた。かつて追従してきた者たちも、今は鈍物と笑うようになった。県の科試では名前が入らず、自ら求めて補欠に入った。府でまた落とされ、これは自力では取り戻せない。録遺(補欠の試験)では胆が縮んだ。有力者の口利きを頼もうとしたが、妻に言いにくく、莫南軒を通じて頼んでもらった。莫氏は大いに怒って言った。「自分から頭を下げず、叔父を遣わして。わたくしの体面はもうぼろぼろです。その上どこにそんな金が? 何百人の中でも抜け出せないくせに、大きな試験で受かろうと思うの? こんな金を使っても海に沈めるようなもの、絶対に無理。」莫南軒は言いくるめられず、自分で何とかしてやろうと思い立った。二人の義兄弟を訪ねたが、どちらも金がないと言い訳した。事が急になってからもう一度莫氏に会い、口を尽くして説いた。二・三両分の質草を持ち出した。莫南軒は何とかかんとか工面した。府で一名を取り、道でも僥倖で一名を得た。この時、二人の義兄弟がそれぞれ会費を出して路銀にした。出発前、蘇秀才は精神を振り絞って、舟を焼き沈めてでも進む覚悟を決めた。莫氏も腸が断ち切れる思いを振り払って、梅の実を見て渇きを収めるように期待した。
石の中に城壁(和氏の璧)が潜み、陵陽(卞和)は三度献じた。血の跡が袖をいっぱいに染め、よくぞ中の宝玉を割り出したもの。
家では亀甲占いや命占いをした。もともと莫氏が嫁入りしたとき、蘇秀才の命を占わせると「若くして科挙に受かり、官は極品まで達する」と出た。しかしその後は科試がのびのびと先延ばしになるばかり。今回は流しの術士が来て「この人は清廉ではあるが貴くなれない。文名はあっても顕達はできない」と言った。「今回は受かりますか」と問うと「不安、不安」と答えた。莫氏はまるで心に蹴りを食らったようだったが、それでも望みを絶やさなかった。しばらくして蘇秀才が帰ってきた。表紙の頭書を書き間違えて貼り紙をされ、がっくりして帰宅した。妻に言えず、だから莫氏はまだ彼を待っていたが、彼自身はもう望みをなくしていた。妻の怒鳴り声を恐れて、知らせが来るより前にまた外へ出て行ってしまった。こちらでは莫氏がまた空振りに終わった。
危うい楼に独り寄りかかり、じっと目を凝らして夫を待つ。碧天を渡る雁の群れが絶え、紫の封書(吉報)は来ない。
蘇秀才の運が思わしくないとはいえ、この婦人の心がここまで変わろうとは思わなかった。前回は貧乏を責め立て、今回はとうとう「守りきれない」と言い出した。蘇秀才はその言葉を聞いて、わざと意地の悪い言葉で突き返した。「守りきれないとばかり言うなら、いっそ嫁げと言えばいい。私はまだここに生きているのに、夫のいない家と言えるか。三度の食事は欠かさないのに、窮困と言えるか。悪くても秀才の家だ。風俗を乱すことなど言えないはずだ。」莫氏は言った。「言えないことがあるもの!人家の夫は颯爽としているのに、あなたときたら甲羅に隠れたすっぽんで、死人と何が違うの?人家は賑やかなのに、うちは氷のよう。守れないと言うこととが、嫁いでいけないということになるの?」蘇秀才は「十数年も連れ添ってきたのに、なぜこの三年が耐えられない?」と言った。莫氏は「あなたのために十年も守ってきた、もう勘弁してもいいでしょう。三年三年と、いくつの三年を騙されてきたか、もうこれ以上聞く気はない!」まさに言い争っているところへ、韓姨夫(韓提控)が挨拶に来た。二度の考課が満ちて京に行き、金を納めて、さらに吏部の火房で働いて、江西の新淦県の県丞に補せられた。油光りの緑の綿円領に鶉の胸当て、紗帽に銀嵌めの帯、駕籠打ち傘に毛氈包みを持った小者が部屋中を埋め、引き裂けた椅子を引いて腰掛けて、挨拶を求めた。蘇秀才は館にいると言って断り、莫氏は髪が整っていないと言って出てこなかった。
五穀が実らなければ稗に劣る。羊の質に虎の皮をかぶれば、それでも光彩を放つ。
うまいことに蔣大郎が幾らか銀子を工面して、この義弟に持たせて前途を買わせていた。韓縣丞はそれを借りて、侯爵の邸の家庭教師の証文を与え、彼も冠帯をつけて客に頭を下げるようになった。莫氏は言った。「どうでしょう!本を読まない者ばかりが官になれる。このすっぱい書生に何の用があるの?」蘇秀才はどうしようもなく莫南軒に頼んで説得に来てもらった。入るなり莫氏は泣き出した。「叔父上、あなたが悪いのです!読書人と結婚すれば良いと言って、十年来何一つ快い思いをしたことがない。着物二枚だけで、試験のたびに叔父上の口利きを使って、わたくしの分まで全部使い果たしてしまった。これから先、どうやって生きていけというの?叔父上、主になって、夫に離縁状を書かせて、別の人に嫁げるようにしてください。」莫南軒は言った。「よくそんなことが言えたものだ!夫を捨てて別の男に嫁いで、人から笑われますよ。戯曲で演じる朱買臣の話を見なかったのか?」莫氏は言った。「会稽太守なんて、あの人にはできっこない。志のない婦人め!わたくしは、彼が豊かになっても振り向かず、貧乏になっても振り向かない。」言い終わって自分からさっさと離れた。莫南軒は説き伏せられず、彼女がもう気持ちを決めてしまったのを見て、ただ落ち場の言葉を言うしかなかった。「不賢、不賢!もうあなたの門に上がらない。」そう言って去った。
強情な心は石のように固く、言葉を費やしても無駄なこと。しばしの気晴らしを喜んでも、汚名が後世の史書に残ることは知らない。
莫氏は決着がつかず、じっとしていられなくなり、首を吊って死のうとし始めた。蘇秀才が館に逃げ込むと、隣人たちが彼を訪ねて言った。「蘇相公、奥様が何やらわけのわからないことを始めて、相公が館にいられては、もし何かあれば私どもに累が及びます。私どもがとやかく言うべきことではありませんが、言わないわけにもいきません。今はもう固く煮えた飯のように、まとまりません。これは彼女が仁でないのであり、相公が義でないのではありません。あるいは彼女は運がなく、落ち着かないのかもしれません。相公にはきっと別によき造化の夫人がいるかもしれません。」蘇秀才はしばらく沈思して言った。「ただ彼女が十年辛苦して守ってくれたことを思うと、もともと離縁の理由もなく、どうして忍びられようか。」隣人たちは「彼女が相公を見捨てる心があるのだから、相公の責任ではありません。」蘇秀才はやむなく「任せる」と言い、隣人たちもそれを莫氏に伝えて彼女の心を落ち着かせた。莫氏は莫南軒のところへ相談に行ったが、莫南軒は関わらなかった。さらに遠縁の従姉妹を探し当てた。これはいつも仲人をしている女で、最初は「夫婦の縁、こんなことをすべきでない」と諭したが、貧困に耐えかねているという話になると一緒に泣き出して「いい人家を探してあげましょう」と言った。府の前に酒店を開いている男が三十歳になっても女房を娶っていなかったので、彼女に頼んでいた。その仲人がまとめようとして「蘇秀才の奥方はなかなかの器量で、算盤も弾ける。蘇秀才が養えないと言うから、嫁いでいいと言っている。文墨の家から出た人だ」と言い、姪には「黄花の若者で、父母が立て続けに亡くなって服喪のため嫁を探せなかっただけ。田もあり家もある、一房の使用人もいる。門口に発売の酒店があって生計の足しになる。行けば、上に尊長もなく、下に奴僕がいて、細い手を動かさなくても家の主婦になれる」と言い聞かせた。さらにその男を連れてきて相見させた。五分の銀子で買った紗巾をかぶり、七銭の天藍色の氷紗の衫、その下に生紗の衫、赤い靴に紗の靴下、なかなか若者らしく見えた。莫氏も身なりを整え、双方でちらちらと見合い、互いに気に入った。数両の聘礼を送った。仲人の従姉妹が主婚者も務めて、媒銭も得た。蘇秀才には「他に言うことはない。十年間、彼女の費用を多く使ったから、返すべきものはある」と言い、几滴かの涙をこぼした。
十年の共寝の辛苦よ、深い情は易々と冷えるものか。別れ道での几滴の涙よ、薄情な者へと送られる。
莫氏はこうして酒屋の男に嫁いだ。田産も家屋も、ただ一間の酒店があるだけで、それも借り物だった。一房の人とは二人だけのことだった。莫氏は騙されたとわかっていても言えなかった。幸い幼い頃から働き者で機転が利き、独り切り盛りして、店で銭を数えて酒を量り、地のやり方に馴染んでいった。
炉辺に卓文君を思わせ、褌は司馬相如と違って普段着のまま。
蘇秀才はこちらで耳が静かになってやっと良かった。婦人は強情で、古い本も壊れた家具も古着も、一切持って行かなかった。しかし完全に家がなくなってしまった。莫南軒が憐れんで、一人の小さな息子の教師として家に置いてくれた。一年十数両、とりあえず身を落ち着かせた。ただ酒店の前だけは通らなかった。悪質な同輩たちや軽薄な若者たちが、三人五人連れ立って蘇秀才の前妻を見に行っては、蘇秀才を嘲って「女房ひとりを抑えられず、嫁がせてしまうとは情けない男だ」と言ったり、「何とか暮らしていけるのに、女房が嫁ぎたがったということは、男に甲斐性がなかったのだろう、算盤の合わない秀才だ」と言ったりした。また女を笑う者もいて、「秀才を捨てて酒屋の手伝いに走るとは、向上心のない女だ」とか「夫を捨てて別の夫を仰ぐとは、本当に薄情な粗暴女だ」とか言う。城中みんなの笑い話になった。蘇秀才は金もなく、また相手を探す気にもなれず、ついに再婚しなかった。二年ほど過ごして科挙の時節になると、彼を学問に入れた知縣が、部署を転じて知府になっていた。貧しさのために妻に捨てられたと聞いて非常に憐れみ、前列に抜擢した。学院でも推薦状を得て、科挙の名を得た。
匣の中の昆吾の剣、風塵の中に繡花がある。一朝ふき直せば、その光は斗牛に斜めに輝く。
蘇秀才は莫氏がなくなって家の負担が減り、一意専心に読書できた。かつて科試に落とされて妻に捨てられた身で、どうして努力せずにいられようか。それはまるで天が哀れんでくれたように、二十一番で受かった。一城が噂でざわめき、莫氏が白々と奶奶(奥方)の位を誰かに譲ったと笑い、誰の家の女がそれを受けることになるか、と言い合った。莫氏は店の中でその噂をはっきり聞き、人に指差されていたが、知らぬふりをしていた。蘇秀才が帰ると、莫南軒が住居を見つけてくれ、早くも二人の家人が身を寄せてきた。仲人は引きも切らずやって来て、「某士族の小姐、才色兼備で多くの持参金あり」とか、「某財主の娘、容色も整い、みずから三百両を持参して成婚を望む」と言いに来る。蘇秀才はかつての貧しい時の妻の面影が頭から離れず、知らず知らず喉が詰まって「もう少し落ち着いてから」と言うのだった。
月宮で初めて丹桂の枝を分かち、嫦娥は瑶池に近づくことを争って許す。しかし思うのは、錦の翼を軽く別れた日のこと、勢いに押されて炎涼の涙を幾たびか垂れたか。
莫南軒も人としての態を失っていると思い、姪のために取り戻す道を探したが、すでに戻せる理はなく、ただ任せるほかなかった。
そうこうしているうちに十一月になり、京へ上って二月の会試に受かり、そのまま殿試で二甲になった。観政(実習)を終えて翌年の選官を待ち、八月に休暇を取って南に帰ってきた。県官が郎中と皂隷を付けて各所に挨拶に行く。三十代でまだ紗帽の下は若い進士だった。最初に府縣へ挨拶に行き、府前を通りかかると、「清香皮酒」と書いた酒屋の看板が目に入った。棚の前に端正で窈窕とした婦人が座っているのを見れば、まさに莫氏だった。蘇進士は「ひとつ会いに行って、どんな扱いをするか見てみよう」と思い、駕籠を止めさせ、傘を差して公服のまま堂々と店に入った。店主の男はちょうど向こうで銭を数えており、二枚の布衣を着ていた。官が来るのを見て逃げた。莫氏は降りてくる人影を見て、すでに蘇進士だとわかったが、恥ずかしがりもせず怒りもせず、ただ知らぬ顔をしていた。蘇進士が前へ進んで、丁重に一揖した。彼女は言った。「あなたはあなたの官をなさい。わたくしはわたくしの酒を売ります。」体も動かさなかった。蘇進士は一笑してその場を去った。
覆水を収める日はなく、去った妻の帰る時もない。ただ出会って一笑を交わすだけで、しばし立ち止まっていく。
思うに莫氏の心に何も動くところがなかったはずはない。しかしこれほど情義を絶ったことをした以上、いかに満面に喜びを浮かべて欣然と迎えたとしても、喜んで再び合わせることなど望めない。ましてや悲しみを含み泣いて衣を引いて自らを責めたとしても、憐れんで再び受け入れることを望めるはずもない。いっそ強情を張って、きれいさっぱり別れてしまったほうが清潔だった。彼女の心の中では、きっと当時の軽率さを悔いていたに違いない。しかしどうしようもない。
心の内で悲酸に暗く自ら嘆き、何度も昔の過ちを悔やむ。閬苑の玲瓏たる樹を移して、門前の桃李の花にしてしまった。
莫氏との情義はとうに絶え、蘇進士も主婦(妻)の席をいつまでも空けておくわけにはいかない。同郷の挙人の沈氏に十八歳の妹がいた。父も進士で知府を務めた人だった。仲人が申し込んで成婚した。まず豪勢な聘礼を、青い傘と黒い役人を従えた管家が飾り箱を抱えて府前を通った。誰もが蘇進士が贈り物を届けていると知った。婚礼では奠雁の礼に赤い円領・銀帯・紗帽・黒い靴で雁の亭に続き、四・五組の鼓手、多くの従人に囲まれ、馬上に颯爽と過ぎていった。莫氏はそれを見て、ぼうっとした。そして「よき幸運の女だ、出来上がった奶奶が待っている」という声を聞いて、心の中は虫が集まり鹿が突進するような複雑な感情で、泣くこともできず、笑うこともできなかった。つくづく思うと、孤燈に向かって読書し、薄い飯と漬物を食べ、会課の日に食事の用意をし、考試の日にお茶の準備をして、どれほど苦しかったか。今日は錦の帳と繍の布団、珍しい食べ物、婢を使い奴を呼ぶ身分が、なんの苦もなく他人のものになってしまった。ちょうど九年受からず、三年目の中に受かった。九年苦しんで、なぜあの三年をもう少し耐えなかったのか。これらの辛いことを誰に話せよう。だから商売はいつも通り続けているが、ただ:
憂いと鬱屈が心をよぎり、人前では無理に自分を支え、人目を避けてひそかに呟くところでも、眉はやはり曇ったままだ。
商売をする時も、心ここにあらずで、少し意地になった。ある若者が現れた。軽薄で口の達者な者だ。「この女、酒屋に立っていながら、まだ奶奶のような顔をしているのか。ひとつからかってやろう」と思った。三斤の酒を買うと言って、まず二斤半の銭しか出さなかった。莫氏が棚にいるところへ、わざとらしく近づいて銭を棚の上に置いた。「三斤の酒をくれ。」莫氏は数えてみて棚の上に戻した。「足りない、買えない。」立ち去ろうとしたとき、その若者はにやにや笑いながら懐から幾つかの銭を追加して言った。「大嫂、何をそんなに気が短い!気が短かったから、奶奶の地位から降りて、それでもまだ気が短い?」莫氏はこのことでどれほど人に笑われ罵られてきたかわからなかったが、面と向かってからかわれたことはなかった。この若者の言葉を聞いて、思わず顔が真っ赤になった。彼と騒いでも始まらないと思い、三斤を渡した。若者は笑いながら去っていった。部屋に戻ると、長い吐息をついてやまなかった。一手を誤ったことを惜しみ、笑い話を数限りなく引き起こした。夜が更けて酒屋の主が一日の疲れでぐっすり眠ると、彼女は起き出した。梁に縄をかけて首を吊った。
鋭い言葉は戈や戟のごとく、か細い身体は画の梁に托した。なおも残る恥があるだろう、雲の中で雁が一列になるように。
店主が五更に目覚めて隣を探ったが人がいない。何度呼んでも答えがない。起き出して探すと、死体に頭をぶつけた。触ってみると、高く吊るされていた。急いで火をつけて来て、急いで降ろしたが、もう絶えて久しかった。なぜかわからず、店の使用人に聞くと、若者にからかわれたためだろうと言う。しかし直接殴ったわけでも、威圧したわけでもないので、罪を問うことができなかった。ただ不運だったと諦めて、莫氏は命を失い、酒屋の主は余計な出費をして、最後に収殮した。
笑殺する、一科を重んじすぎて、一命を羽毛より軽くした。
蘇進士はそれを知って、銀二十両を出して、莫南軒に頼んで埋葬地を選ばせた。「一念の誤りが速死を招いた。しかし十年連れ添った情は消せない」と言った。あの蔣大郎は小作料の件で偽りの人命事件に巻き込まれ、もとの莫家の田地について口添えを求めてきた。韓縣丞は県印を代理しようとして、もとの莫家の家屋を送ってきた。蘇進士は莫翁が婿を選んだ日の心を思い、莫南軒の末の子を養子として立て、家屋と田地を全て与えて血食(祭祀)を絶やさないようにした。さらに養子の子に学問に入ることを勧め、莫南軒の日ごろの情に報いた。彼はその後、官が方伯(布政使)に至り、二子をもうけて夫婦ともに白髪まで添い遂げた。
だが読書人として、幼い頃から書に向かい、韭葉と塩で夜の灯火を友にして、本人がどうして一挙に名を成し、親を顕かにし、身を立て、妻に封爵を与え、子に栄を蔭さんと望まないことがあろうか。しかし読み学ぶのは自分の事、富貴は天の命である。早かれ遅かれ、成功するかしないかは、自分の自由にならない。彼の妻になったなら、賢い者は持参金を割いて名士と交わらせ学業を大きくするか、あるいは家業の経営を代わって一心に書に集中させる。試験に出来不出来はある、ならば彼を慰め励まして成功を望むべきだ。どうして日頃から責め立て、書本を捨てさせて家計を考えさせるのか。ひとたびの試験でわずか結果が悪ければ、彼自身がすでに恥じ惶っているのに、さらに追い詰めて煎り焙るような責め立てをしてどうする。夫を捨てることに至っては、さらに奇怪な事である。朱買臣の妻に次ぐ一人と言えよう。生前には嘲りを残し、死後には汚名を遺すことになった。あえてこれを読書人の妻妾たちに告げたい。