酔醒石(すいせいせき)

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第十五回 王錦衣は園亭から禍が起き、謝夫人は智慧をもって権貴を屈服させる

紫の苔と蒼い苔は呉の宮を覆い、三月の秦の灰はあの楼閣に空しく漂う。

醯鶏(酢の虫)のように走り回っても徒に骨折り、荼草に巣を作る鵲のように苦労して働く。

朱の門は幾たびか残月に錠を下ろし、錦の帳は時に晩風の嘯きに驚かされる。

方丈の地も六尺の体を容れるに足りる、あの馬鹿者が日々憂心しているのを笑い飛ばそう。

人は富貴の者をよく笑う。富貴の者は絵の中の山林亭台は好むが、真の山水亭台は好まないと言う。富貴の者は終日算盤を弾き、手板(笏)を持って、庭園へ行く暇がないと言うのだ。しかし庭園もまた一つの仮の象である。曲がった欄干と小さな柵、竹を植え花を栽えて、十分に心を慰めることができる。結局のところ、自分がそれを享受できるのはどのくらいか、遊び楽しめるのはどのくらいか。要するにただ自分一人の精神を費やして、他人の楽しみを提供するだけだ。さらには庭園を持たぬのに、某人の庭園が良いと聞いて百計を尽くして手に入れようとする。庭園が小さければ拡張しようとし、某人の庭園が良ければ百計を尽くして奪い取ろうとする。某人の佈置が良いのならそれを真似ようとし、某家の花竹が良ければそれを求めようとする。千方百計に算段して、一刻も落ち着かない。何ほどかの苦労をして、人からほんのわずかの称賛しか得られない。しかも庭園がどんなに広くても、毎日そこにいれば目が慣れて珍しくもなくなる。むしろ足を放って歩けば、至る所が我が園林となり、眼を放てば至る所が我が亭榭となる。それの方がよほど、光景は日々新たで、境界は日々変わる。今の世、良い庭園を持つ者は権貴の家に及ぶものはない。しかし権貴は最も容易に消え去るものだ。権貴は三十年五十年と続くものではない。庭園が良ければ、最も人の目を引く。互いに争い奪い合って、誰が長く保てようか。これで人々の奪い取ろうとする心を冷まさせることができよう。世の人はどうして知ろうか、ある時の権勢があれば、その時の権勢を使う。しかし権勢には尽きる時があることを思いもしない。権勢が皇帝に至れば極まり、楼閣は「阿房宮」「迷楼」、天下の奇巧を極め、山林は「艮岳」、天下の花石を聚める。国が遠く移れば、その一椽一棟、一樹一石はどこに求めるべきか。次いで宰相・李德裕の「平泉園」は、子孫が我が一石一樹を失えば、子孫にあらずと言った。今それはどこにあるか。

蘭亭はもう過ぎ去り、梓澤は丘墟と化した。俯仰して今と昔を思えば、誰が久しく保てようか。

前の朝(明代)嘉靖年間に、ある王錦衣という者がいた。彼が好んで手入れしたのは花園だったが、後に人の心を動かして、奪い取ろうとする者が現れた。その妾の一言がなければ、庭園も屋敷も失い、宗祀も絶えるところだった。これもまた庭園が禍を招いた例である。

山水に興を寄せ、もって身心を怡ぶ。いつ階(身分上の者)が覬覦することを知ろうか、禍患が相次いで迫る。

この王錦衣は大興の出身で、武進士から錦衣衛に就き、官歴を重ねて指揮使となった。錦衣衛は武職の中でも権要の衙門ではあるが、彼は素より清雅を好み、士夫(文人官僚)と交わることを好んだ。順城門の西、城の近くに一つの庭園を手入れした。その中の客廳・茶廳・書廳は皆江南の様式に倣い、極めて精雅だった。迥廊の曲がった柵、小さな東屋と明るい窓。外には幽かな小道が花木・竹石を巡るように続いていた。彼は詩を作ることができた。縉紳(高官)の中の名公を招き、また何人かの山人詞客と共に、そこで詩社を結んで、時々詩を作った。

深く馬上(武人の道)を薄しとして志を抑え、清流を延いた。緑の醑(酒)で明月を招き、新詩は素秋(秋)を詠ずる。

王錦衣には北方の荒々しさもなく、武夫の気もなく、詩社の中では誰も彼を軽視できなかった。皇城の西南の角は皆文官の住宅であり、彼が客を好んで士夫と多く交わり、庭園が幽雅で観玩できることから、公の会合があれば皆が帖子を送って借りてくるので、王錦衣の庭という名が広まった。夫人が亡くなり、二人の京の妾がいたが、さほど意に合わなかった。人を遣わして揚州へ行かせ、謝という小奶奶(側室)を迎えた。容姿が美しく艶麗で、気立ては聡明で、詩の句も少し作ることができた。

名花は広陵(揚州)の枝から移され、その逸態はたおやかに、風に揺らぐようだ。

一曲《後庭》の調べはなお麗しく、嬌うぐいすが上林で最初に鳴くころのよう。

京に着くと、王錦衣とたいへん気が合い、しばらくの間、士夫はこぞって詩を作り来て祝った。後に一年余りが経ち、男の子を産んだ。王錦衣には子がなかったので、この子を得て金銀宝玉を得たも同然だった。また謝奶奶が見識と才幹があることがわかり、家事を任せることにした。先に来ていた二人の妾は、先に入門した上に京人であったので、たいへん腹が立ったが、謝奶奶は彼女たちをうまく治めており、あまり嫉みはなかった。また士夫との交際、礼儀や宴席での取り計らいが整然と行き届き、まことに良き内助であった。

交友を量って山濤(賢者)を識り、枕辺より宿酔の醪(酒)を取り出す。時に鬢の毛を剪ることも辞さず、よく主人を豪気にする。

王錦衣は武科出身で、百戸(百人隊長)を得て街道の管理を担い、それだけでなんとか日々を過ごしてきた。その後差し出されて大臣一人を解送し、千金を得た。さらに理刑千戸を務めて生活も安定した。北鎮撫司の長となるに至っては、猫が魚の腥(なまぐさ)を食うように、銭を受け取っても手が震えることはなかった。ただ受け取れるものは受け取り、受け取れないものは受け取らなかった。執法すべき時は執法し、情を汲める時は情を汲んだ。むやみに銭を絞り取ることはせず、それでも家産は大きくなった。武宗が南巡した時に堂の印を代理で管理し、寧王の謀反によって交通罪に問われた都督・朱寧を捕らえた。後に武宗が没すると都督・江彬を捕らえ、世宗の初政の時には司礼監太監の蕭敬一党、指揮の廖鵬一党を捕らえた。以前の打問(取調べ)では、刑を寛大にしてほしいとの求めに銭が入り、後にこれら数家を籍没(財産没収)すると、皆百万の家財があり、官分(官への取り分)や吏分(吏への取り分)でまた銭が入った。家産が大きくならないはずがない。そのため朱寧を籍没した時には、銭を使って官の価格で朱寧の海岱門外の大花園を買い取った。廖鵬を籍没した時には、価格を払って平子門外の廖鵬の大花園を買い取った。廖鵬のこの庭園はすでに広々としていた。

名花が径を引き、古木が林を開く。曲廊は繚繞として、蜿蜓たる百尺の虹のごとく;高閣は巍峨として、幾重もの雲霧に掩映する。戸は紫蒼(薄暗い青)を納め、軒は絶壁に倚る;水は金碧(金と緑青)を浮かべて動き、堂は清流を映す。小柵の外には奇音一部あり、蕭々たる疏竹は風に舞い柔らかに;閑亭中には清影数枝あり、矯矯たる高松は月の移るにつれて至る。瑋麗にして富貴の相を積み、幽深にして隠逸の風あり。

あの朱寧の庭に至っては、更に別格だった。

材は東南を竭くし、力は西北を窮める。水は玉河より借り流れ、一道の驚湍が玉を写す;堂は金闕(宮殿)の近くに開き、十尋の偉棟に金を塗る。古松を栽えて径を開けば、天目松・括子松は、月が環玦(玉の輪)のように流れ、風は笙竽の音を送る;奇石を聚めて山となせば、太湖石・霊壁石は、竜や螭のように立ち、獅子や虎のようにうずくまる。陰陰たる洞壑は雲煙を漂わせ、曲蹊や回る山道は奥が尽きない;落落たる楼台は日月に連なり、奥深い御殿は歩き尽くせない。まことに琪花や瑶草も名づけようがなく、語る鳥や游ぐ魚も皆楽しそうだ。

王錦衣はここに入って、真面目に手入れをした。これらの清客(文人の客)に付き合ってもらい、中で力を入れて佈置し点染(趣を添えた)。名公や大臣を招いて、あちらこちらに扁額を書き詩を賦してもらった。石崇の「金谷園」や王維の「輞川荘」とは言えないにしても、北京では一、二を争うものだった。毎年春の牡丹の頃、夏の蓮の花の頃、その他の節折々に、自分は大轎(かごに乗り)、その他は高い車や駿馬に乗り、謝奶奶や群妾と共に庭園に行き遊楽した。あの王錦衣が謝奶奶を携えて庭園を歩きながら「この場所は自分がどれほど手入れしたことか、この扁額はあの人の新しい贈り物だ、この径は新しく開いたもの、この堂は新築、この木は新たに植えた」と言った。謝奶奶もうやむやに「よいですね」と言ったが、明らかに不満の様子があった。王錦衣は気づいて「何か気にかかることでも?」と尋ねた。謝奶奶は「何でもありません。ただ思えば、この二人(朱寧・廖鵬)は武臣としても顕貴であり、上位の者から寵愛を得ました。しかし驕奢をほしいままにして権をもてあそび、銭を求めて法を曲げたため、今日は籍没されて我が家に帰してきた。官が高ければ必ず険ありとは言えないでしょうか。しかもここは輦轂(都)の下、貴戚や寵臣に欠くことはありません。我が家には庭園が三つあり、皆きれいに手入れされて名が出ています。嫉妬する者や目をつける者が出るのではと恐れています。息子もまだ小さく、ふと触れるとこんなことになってしまうので、不満に思っておりました」と言った。

造物は盛満を忌み、人心には覬覦するものが多い。閨閣の中にあってとは思いもせず、深くこの永遠の計を図る。

王錦衣は言った。「あの二人は逆党に加わったために、このような禍があった。私はただ公に奉じ法を守るだけだ。このような禍はあるまい。あなたが息子の小さいことを心配し、この産業が人の目を引き人に目をつけられることを恐れているのはわかる。古来『千年の田も八百の主』と言い、永久に保てる道理はない。また『子孫には子孫の福がある』と言う。あなたはそんなに心配しなくていい」と言い、群妾と共にいくらか酒を飲んで帰宅した。謝奶奶は思い悩むのを止めるしかなかった。ある日、衛中に陸指揮という新任者が来た。江南の籍の者で、かつて任地で府を典(管)し、聖上の登基に際して龍に随う侍臣として、次第に昇進して今の地位に至り、銜を列ねて堂に出仕することになった。王錦衣はもともと和光同塵(世に調和して生きる)の人で、この陸錦衣もまた人を奉る気質の者、互いにたいへん厚く交わり、三つの庭園に招いて遊楽させたことがあった。陸錦衣は点綴の光景についていくつか意見を述べ、まことに的を射ていたので、往来が最も多く、通家(親しい家同士)となった。ある日、陸錦衣の宅で酒を飲んだ。子息のことを尋ねると、陸錦衣は「一人子で、もう十六歳になります」と言った。王錦衣は会ってみるよう頼んだ。なかなかの人材だった。

玉のように佇立して骨格は昂々とし、清らかな標(面差し)は粉を施した若者のよう。

目は秋水のごとく澄み渡り、眉は晩山のごとく長く引かれる。

燕の頷は重き器(人物)となることを知らせ、虎の頭は異なる祥瑞を開く。

薄い年少の者と侮ることなかれ、天の道を守りて翱翔せん。

王錦衣は一目見て「寅翁(陸錦衣の愛称)、なんと立派なお方が!後日の功名は寅翁をも凌ぐでしょう。学生(私)などとても及ばない」と言った。陸錦衣は「年翁大人(王錦衣の愛称)のようになれれば、家門の幸いです」と言った。しかし王錦衣は、彼の立ち居振る舞いがまだどこか俗にへばりついているのを見て、言葉を問うてみても粗野であった。王錦衣は言った。「令郎の前途を言うには及ばない、遠大なものです。ただ学問を怠ってはなりません」と言った。陸錦衣は「倅も将来は武官でしょうから、字が読めればそれで良い」と言った。王錦衣は言った。「寅翁、そうは言えませんよ。我が衛は他の衛と違い、問刑(刑事審問)の衙門です。廠(東廠・西廠)からの上奏、外から解送されたもの、内から発下されたもの、聖旨を受けてすぐ問いただす。まだ獄には至らなくても、これが最初の供述になります。こちらからの上奏が重ければ、法司も解決できない。また情法が本来軽い場合でも、聖上が重くすることを望んでいれば、重くしないと聖旨に逆らい、重くしすぎると公道を傷つける。この上奏の中に巧みな抑揚と丸みが必要で、後日罪を出る道を開いておかなければなりません。また原案が重い場合でも、道理からすれば軽いはずなら、それを論駁できなければ人を納得させられない。問事(取調べ)の時には、内情によっては言葉で脅して本当の事情を得ること、あるいは言葉で誘導して本当の事情を得ることもある。人が書き出せない言葉は、ひとえに訴状や探索の単紙だけに頼ってはいけない。人が作り上げた話は、巧みな弁に頼ってはいけない。虚心が必要で、さらに道理を明らかにしなければならない。こうして犯人に欺かれず、吏役に騙されない。令郎が良ければ、私の問擬(審問・判決)の審語や題参(上奏)の本稿をお送りしましょう。通家の間柄ですから、よく舎下(私の家)にお越しになり、寅弟が彼に一席話してあげましょう。この若い暇な時期に心を用いるのが正しく、渇に臨んで井を掘るのでは遅い」と言った。

学問は時を及ばせなければならず、理が明らかになれば断決することができる。天下に冤なしと称えられ、古の明哲に愧じない。

その後、陸錦衣は礼を整えて、息子に通家の姪として礼を述べさせ、教えを請いに行かせた。王錦衣はこれらの審単や判決の疏を彼に講説した。陸錦衣の息子は暇な時にはまた教えを請いに来た。王錦衣も暇な時には来させて講論した。謝奶奶は客のもてなしが極めて盛大だった。王錦衣はまた「この人は後に大いに貴くなる。粗略にしてはならない」と言った。謝奶奶はますます丁寧にした。この小陸錦衣は彼の家でいかほど世話になったかを知らず、三つの庭園にもよく遊びに来ており、論じれば大きな恩があった。

食を推し(飯を分け与えて)の恵みはまだ浅く、手を取って教え諭す意は特に温かい。父の友人などとは言えない、師恩にも劣らないほど。

謝奶奶もよく言っていた。「今どきの若い者は自分が正しいと思う者が多い。あなたがこれほど心を尽くして教えても、必ずしも良いと思って感謝しないかもしれない。あなたも今、息子が八九歳になった。教えてあげては」と。王錦衣は「彼はまだ小さく、言っても理解できない。ただ『四書』を少し読んで、大きくなれば家の官を継げばいい。一人子を苦労させたくない」と言った。その後、王錦衣はいくつかの件で、大礼(礼制)を諫めた官たちの取調べではすべて寛大に処置し、また山西巡按・馬錄が妖人・張寅を捕らえた一件でも事実に基づいて処理し、聖意に適わず、さらには内閣の意にも適わなかった。彼もまた急ぎ病を口実に辞職を願い出た。この三つの庭園で、三、四年ほど楽しく過ごして没した。

大樹はまだよりかかれるが、将軍は今いずこ。ただ行楽の地だけが残り、春草は緑に茂る。

平日の交際は文官が多く、挽詩を二首も得た。二人の子なき若い妾は京の出身で、房奩(持参金や家財)を持って自ら去ってしまった。家の主人は幼く、才のある家人も皆飛んで去り、ただ幾人かの老僕と小者(丁稚)だけが従った。謝奶奶はいつも嘆いた。「あなたは人の世話をするのがお好きでした。今あなたの世話をしてくれる人はいなくなりましたね」と。それでも母子は耐えて生き延びた。あの陸錦衣は聖上が湖広承天府へ献皇帝の陵を拝礼しに行く際に、扈駕(御供)の役にあたり、息子を連れて同行した。河南に差し掛かった時、行宮で二度火災が起きた。二度目の火が大きく、近侍の内官・宮女のどれほど多くが焼け死んだかわからなかった。扈駕の大臣は煙と炎の中で聖上がどこにおられるかもわからなかった。ところが陸指揮の息子は、その運が至り、命がけで中に入って御護りした。聖上が炎の中で逃げ道を見失っておられるのを見て、彼は承天にいた時に聖上を拝見したことがあり、お顔を覚えていたので、真っすぐ前に進んで背に背負い、煙と炎の中を脱け出した。これは真命の御主君には百の霊が助けるとはいえ、命がけで護駕したこの功は何にも及ばない。

天を負うこと鵬の背のごとく、日を沐するにあの淵(日が沈む所)に向かう。湯火も全く恐れず、功はよく簡冊(歴史)に刻むべし。

聖上は途上で既に官職と重賞を下された。帰京後も連続して昇進が重なり、四、五年を経ないうちに都指揮掌堂にまで至った。彼が刑事案件を審決するさまは老練な吏のごとく、人は皆彼の少年老成ぶりを称え、誰かに伝授されたものとは知らなかった。あの陸指揮も自分が聡明で問い方が上手く、審単も人を納得させ、題本もよく聖上の許可が下りたと思い込んで、かつて王錦衣が費やした一番の唇舌を忘れてしまっていた。

小鳥はすでに翼を奮って、もはや卵で育てられたことを思わない。

凡そ人は貧賤の時には一身を守るのが精一杯で、富貴になれば余裕が出て欲が生まれる。陸指揮はもともと承天府にいて、京に来た頃は産業もなかったが、今は産業を買いたいと思い、遊ぶ場所が欲しくなった。すると暇な者たちが言った。「庭園なら王錦衣のが良い。王錦衣は死んで、息子は出来が悪く、放蕩と賭博が好きで、もたないだろう。使いを出して言い、買い取るのがいい」と。陸指揮は「あの海岱門外のものか。良い庭園だ。あの頃中にいて羨ましく思ったものだが、売るかどうかわからない。二、三千両は必要だろう」と言った。老校尉の許都知という者が跪いて「爺、小者に千二百両だけお与えいただければ、自分がもらいに行きます」と言った。陸指揮は「少なすぎるのでは」と言った。許校尉は「少なくありません。爺、産業が手に入れさえすれば」と言った。陸指揮は笑いながら「まず話をつけてきたら、銀子を渡す」と言った。

かつての遊び憩う地が、久しく夢魂を引きつける。あの三寸の舌を使って、彼の十五城(十五の城)を奪い取れ。

この時、王錦衣が死んでから七、八年経ち、王公子はもう二十歳に近かった。以前、謝奶奶は読書に励ませて良くなるよう厳しく督促していたが、王錦衣はかわいがりすぎて甘やかしていた。父が死ぬと、母は厳しくしたが、家の中だけに厳しくできた。十五、六になると、ろくでなしの者たちが彼を誘って外で遊び歩かせ、悪い評判を立てさせるようになった。縁談が決まって親を迎えると、また一人の舅子(妻の兄弟)が加わり、これもまた乱暴な公子で外でもめ事を起こした。謝奶奶も彼を制することができなかった。この日、許校尉が来て話を持ちかけると、王公子は豹のように飛び跳ねて「あなたの家は錦衣だが、うちも錦衣ではないか。どうして舐めやがって、うちの庭を欲しがるのか。うちは売らん、売らん。お前だって、うちの親父の世話になった身で、こんな無礼なことを!」と言って、殴りかかろうとした。謝奶奶が聞きつけて来た時には、許校尉はすでに追い出されていた。謝奶奶は内心腹が立ちながらも「陸指揮はうちの主人の恩を受けた者だ。どうして私に口一つ利かせず産業を売らせようとして、軽々しく話を持ちかけるとは、本当になめた話。きちんと断って帰してやれば良かったのに、校尉を殴ろうとしてはいけない」と言った。

かつての平泉(李德裕の平泉園)の客として共に酔い、杯や觴はまだ冷めてもいないのに。狂った謀を思い立って奪い取ろうとし、たやすく恩の波紋を昧る。

この一件で、事態は悪化した。許校尉と陸指揮は罠を仕掛けた。

ある日、王公子が幾人かの取り巻きと外に出たところ、一人の京の乞食のような男が来て、朱寧の姪と称して充軍(流刑)から赦免で戻ったと名乗り、「うちの花園は田地と合わせると七、八千両の値打ちがある。お前の家は君を欺き国を食い物にして、千二百両で官の価格で買い取った。うちの家の窖(地下倉庫)の中に隠してある銀が十余万両あったが、皆籍没の欽贓(君主への没収金)として全部掘り出した。今すぐその銀を返してもらい、産業も返してもらう。返さなければ訴え出て、取り戻して官に没収させる」と叫び騒いだ。王公子は腹を立て、殴ろう、突き出そうとした。取り巻きたちは「それはできない。彼がでたらめを言い公子が言い返せば、それで対決するしかない。まあ我慢しろ」と言った。王公子はへなへなとなって、まとまりがつかなくなった。皆が話をつけて「公子には庭があるのだから、この土地をこの乞食に渡してやれば、騒ぎがなくなる」と言った。謝奶奶は「官に収めた本来の価格は要求すべきだ」と言った。皆は「この貧乏乞食に銭などあるわけがない。二日も騒がれて廠衙(東廠・西廠)に知られたら、冗談ではない」と言った。公子は皆に急かされて、とうとう退渡しの証文を書いて渡してしまった。

権勢が盛んな時は産業が日々増え、時が去れば二度と保てない。

この男は証文を得て、自ら許校尉のところへ行き、千二百両を受け取った。王公子の取り巻きたちも、もともと同じ汁を吸って育った者たちだった。王錦衣が数年かけて経営したこの土地は、すでに陸指揮のものとなっていた。

桑海の改まりは時と共に変わり、柱を立て土台を造ることも空しい苦労。古来より遊観する者は、最初に作った人ではない。

謝奶奶は「このことは明らかに陸指揮がやったことだ。彼もあなたのような指揮の息子で、ただお前の父が彼に教えてやったから、今は刑を問うことができて、堂上でも人を脅すことができる。あなたは今すぐ外でのろくでもない行動をやめて、家に帰り、父親の残した書を出して読んで、字を覚えなさい。また錦衣衛千戸の蔭職(世襲の官職)を継いで、彼と同じ衙門の官となり、父の意地をも果たして、この産業を守り続けなさい」と言った。王公子は聞いて、悔しそうに、意気込んで家に帰り、書房を一間整えて清潔に掃除した。父の残した書を全部運び出して並べ、門番に「誰が来ても報告不要、すべて不在と断り、舅爺の来訪もお断りするように」と言いつけた。

学ばないと嫌うなかれ、燭を持って行くのは暗中を歩くより勝る。五十の高常侍も、詩を作ってそれで名を残した。

翌朝、部屋に入って、この本をぱらぱらとめくり、あの本をめくってみるが、何が書いてあるかわからず、十文字のうち八文字は読めない。頭を揉んで目を見開き、ため息が雷のように続く。巳の刻(午前十時頃)頃になって一冊を持ち、まっすぐ母親の部屋に行った。謝奶奶は「やっと座り始めたと思ったら、なぜまた出てきたの」と言った。王公子は「中に入って何をしろというんだ」と言った。謝奶奶は「読書をしなさい」と言った。王公子は「どう読むんだ」と言った。謝奶奶は「本を見て書いてある字を読めばいい」と言った。王公子は「読めない字だらけで、どうやって読むんだ」と言った。謝奶奶は「それでは今まで何を読んできたの」と言った。王公子は「小さい頃、師匠が私に読み聞かせていたが、私は聞いていなかった。今また師匠に読み聞かせてもらわなければならない。これほどの大人になって、師匠に読んでもらうとは、恥ずかしくて仕方ない」と言った。謝奶奶は「恥ずかしいと思うなら十分。今学ばなければ、もっと恥をかく。行きなさい、私が師匠を呼びにやるから」と言った。王公子は部屋の中で、立っても落ち着かず、座っても落ち着かず、歩いても落ち着かず、寝ていても落ち着かず、また外へ出てしまった。

鷹は腹が満ちれば繋がれることを受けず、常に空高く飛びたいと思う。一息ついて篝(飼い場)を離れれば、ひらりとひとり飛んで去る。

出て数日帰らず、謝奶奶は人を遣って方々探したが見つからなかった。

五、六日経って、順城門内の庭の番人が来て「たった今、旗校のような者が数人来て、庭はすでに陸府の管業(管理)になったと言い、別の庭の番人に替えるとして、私を追い出しました」と告げた。謝奶奶は「私の庭は売っていない」と言った。番人は「現に私の家財を街中に散らかして、また差し使いを遣って取りに来させようとしています」と言った。謝奶奶は「そんなことが。白昼人の産業を占領するなんて、私だって理屈を言ってやらなければ」と言った。ちょうど話しているところに、王公子が帰ってきた。「大変だ、あの忘恩の野郎に局(罠)にはめられた。気がふさぎ込んで出てきたところ、ちょうど舅子に出くわした。門番が不在と言ったのにどうして出てきた、と言うので、門番が知らなかったんだと言った。舅子が一緒に行こうと言って、良い場所だから遊ぼうと言った。ある大きな邸宅に着くと、すでに五、七人いて、衣装も人材も皆うちと同じで整っていて、そこで賭博をしていた。舅子が下(賭け)ようと言うから、私は銭がないと言った。彼が大きな産業があるから銭が足りないわけはない、自分が保証する、と言って五百両の籌(賭け金の計算単位)を持ってきて二人に渡した。初めはある程度勝ったが、舅子が負け続けた。最初の一、二日で三百両負けて、私は証文を書いて帰ろうとした。舅子が籌を引き換えると言い、数日連続して、舅子が勝てば私が負け、私が勝てば舅子が負けて、ついに千二百両の負けになった。向こうは証文を要らないと言って、産業を要求した。私は何の産業かわからなかった。舅子が『順城門西の花園だ、四至(四方の境界)を知っている、しばらく彼に書いてやれ』と言った。私は肯んじなかったが、皆が騒ぎ立てて、外に出させてくれなかった。舅子が『産業千両を千二百両の負けに当てるんだから、まだ得をしている』と言い、書こうとしたら『足りない』と言い出した。また百両の証文を書かせて、舅子が保証銀を出して、やっと脱け出してきた」と言った。謝奶奶は「わかった、これは舅子と陸指揮が連んであなたに罠をかけたんだ。もう産業は陸家が管業している」と言った。王公子は「これほど早く。私の書いた文書は空白だったのに」と言った。謝奶奶は「全くの馬鹿者、全くの放蕩者。あなたの父は千四百両で買い、さらに造繕(修繕)費で二千両かけた。あなたは千二百両で賭け負けにして、まだ得した気でいる上に、さらに百両の証文まで書いた!もういい、こんな放蕩者を産んでしまって、巣(住まい)まで賭けで失ってしまった」と言った。王公子は「舅子が道を作ってはめたんだ」と言った。先に部屋の中で妻と一晩中喧嘩して、妻はひどく腹を立てて首をくくろうとした。

愚かで馬鹿な放蕩者よ、薄命を嘆ずる紅顔(美しい妻)よ。

この件はもともと舅子が人と連んで罠を仕掛け、陸指揮に媚びたものだった。愚かな子が気づかないことを見越していた。ところが謝奶奶に見破られ、家中が騒ぎになり、妻までが首をくくろうとした。舅子は喧嘩を仕掛けに来たが、妹が無事に座っているのを見て「兄さん、うちじゃないだろ。彼が良くしないなら、あなたが言って諭してやるべきで、どうして一緒に罠をかけるんだ。それは親戚のすることじゃない」と言われた。舅子は顔をこわばらせて「何をそんな馬鹿なことを」と言った。王公子がまた部屋に飛び込んできて「恥知らずの卑劣な奴め、どうして人を連んで罠にはめるんだ。二千両の産業を千二百両にして、まだ俺が得したと言い、陸指揮の陰の力を使って、一生恩着せをするつもりか。こんな禽獣め、二度と我が家の敷居をまたぐな、出て行け!」と怒鳴った。すでに謝奶奶も来て「もういいわ、庭は陸指揮がもう封鎖してしまった。誰があんな亡八(無頼)と賭博をしろと言ったのか」と言い、また舅子に向かって怒鳴り始めた。舅子はやむなく逃げるように去った。恥と怒りで「この家ではもう話にならない。百両の保証銀もまとまらない。もういっそやるだけやってやろう」と思った。

紛々たる蝿や犬のような取り巻きども、微かな羶(獣の臭い)のある利に向かって我がまま放題。ただ権勢を使えることを知るのみで、どうして骨肉(縁続き)のことを念ずるか。

この二件は、もともと陸指揮と許校尉のやったことだった。前の件では取り巻きを使い、産業の価格は取り巻きとあの偽の朱寧の姪が分けた。今回は舅子を使い、産業の価格は舅子と賭け師仲間が分けた。許校尉にはどちらも報酬があった。そのため、また許校尉のところに来て「陸爺が妹婿の家を封鎖した。妹婿が騒ぎ立てて、局(罠)賭博で訴えてやると言い、陸爺の産業占領を暴露すると言い、妹を追い詰めて死なせたと言いふらす。今衛(錦衣衛)に訴え状を出す。妹婿は訴訟を恐れているし、謝奶奶は体面を重んじて官に訴えることを嫌がっているから、必ず来て手打ちをして、あの平子門外の庭を陸爺に贈り、俺たちにも千両程度でけりをつけさせるはずだ」と言い、でたらめの訴状を書いた。制度に違反した建物を造り、売春の巣窟を経営した、父親と姦淫した、妻の諫めに怒り、母と共に首吊りに追い込んだ、などと書いた。許校尉がこれを持ち込んで受理させ、許校尉を差し使いとして送った。

羶(利)を求める心は深い谿と壑のようで、鷹や鳶を駆り使う。一枚の符(令状)は火のごとく、崑崗は玉も石も共に焼く。

大抵差し使いが来ても、まず人を捕まえるより先に銭の話をする。この許校尉は大きな一仕事をしようとしていたので、銭の話をせずにすぐ人を捕まえた。王公子を鷹が雁を掴むように連行して、公式の宿所(官店)に閉じ込めた。勢いが大きく、家の者は何事が起きたかわからないまま、差し使いへの銭、衙門への費用、官の銀子などをいろいろと話し合った。この王公子を店に閉じ込めて、一日五分の官飯(粗末な飯)を食べさせ、親族の顔も見ることができない。謝奶奶は大したことではないとわかっていた。ただの詐欺だから、難しいことにはならない。もし状況が厳しくなれば、向こうは大きく口を開ける。まず冷ましておいて、息子も少し焦らせれば、後日も恐れてむやみに歩き回らなくなる。一日置いておくと、許校尉は状況が緩んでは困ると思い、謝奶奶に出頭を求めに来た。もし謝奶奶が「私は官宦の家の者なので外に出ない」とでも言えば、向こうが得をする。ところが謝奶奶は黒い手ぬぐいで頭を包み、青い上着に古い靴を履いて「行きましょう」と言った。許校尉は驚いて、引き下がるしかなく「奶奶、前の爺(亡き主人)はここに座って堂上を務められていた。奶奶が表に出るとは。双方とも親戚なのですから、話し合ってうちで解決してはいかがでしょう」と言った。謝奶奶は「あの頃はあの頃のこと、今は今のこと。先は奶奶だったが、今は犯婦。行かないでどうするの」と言い、小さな轎を呼んで、許校尉もやむなく随って衛前に向かった。許校尉は話を整えながら「誰でも爺の恩を受けていない者はいない」と言い、銭を詐ろうとして、あれこれ画策して百数十両を使った。

かつては堂上の人として君臨したが、墓の木はすでに拱(合わせて抱えるほど)になった。その余威はもはや残らず、以てよく怒鳴りつけを免れた。

陸指揮が堂に座って人犯を引き入れると、門前では怒鳴り声が響く。拶指や夾棍(拷問具)を地に投げ落として、王公子が怪しく泣き叫んだ。「母上、もう終わりです。今日は死にます」と言った。謝奶奶も地に跪き、彼に向かって「どうして死なないで済むと思うの。あなたの父が生前ここの堂に座って、天理に反することをどれほどやったか知れない。今日の報いはあなたの身に来ているのよ。それでも生きていたいと言うの!」とはっきり言った。この言葉を聞いた陸指揮は、顔を厳しくしたまま上で威張ろうとしていたが、父親のことが口から出て、かつて陸指揮に恩のあった人だと想い起こした。また父親が天理に反することをしたと言い、今日の件も天理から言えば難しい。陸指揮は思わず良心が動いて、わざとらしく許校尉に「これは何者か」と問うた。許校尉は「前任の王爺の奥方です」と答えた。陸指揮は「まあ立ちなさい」と言った。謝奶奶はすっと立った。陸指揮は「訴状にある制度違反の建物、売春業の経営、父との姦淫、妻を追い詰めて死なせたとは、どういうことか」と尋ねた。王公子はひと言も答えられない。また謝奶奶が言った。「家屋はもともと二間あり、すでに人に渡しました。詐欺のことは、被害者は誰か。父との姦淫については、父が死んだ時、この子はまだ十二歳でした。二人の妾はそれぞれ実家に帰り再嫁しました。妻を追い詰めたと言いますが、妻は今も家にいます」と言った。陸指揮は彼女の言葉の道理が厳正なのを聞いて、心の中ではまた思った。三つの庭のうち二つを手に入れた。もう勢いに任せてこれ以上追い詰めるのは心苦しい。やむなく手を引いて「この訴状は嘘のようだ。しかし妹御が自縊を図ったことは理由なきことではない。帰りなさい、私が取り消しておこう」と言った。

厳しく復讐の理を提えて、虎狼の心を深く聳かせた。早くも貪残の性を抑えられ、兢々として敢えて侵さず。

帰宅すると、謝奶奶は言った。「彼もあなたも指揮の息子。彼は座り、あなたは跪き、さらに私まで巻き込んで、恥ずかしくないの。今、あなたの親戚や友人の姿を見たでしょう。あなたをはめようとしない者が誰一人いなかった」と。王公子もまた自ら悔い、心を収めた。家で、謝奶奶自ら読み書きを教え、また銭を使って錦衣衛千戸の蔭職を継いで、陸指揮と再び同僚となり、父の意地もいくらか示して、一つの庭を守り続けることができた。あの陸指揮は、寵愛を受けながら宮保腰玉(最高位の官職)にまで至り、楽しい年月もしばらく続いた。しかし没後、人が彼の奸贓を糾弾し、籍没されるに至り、あの二つの庭はまた誰の手に落ちたかわからない。権勢を使って人の産を奪った者も、終いには人に帰するものだ。思えば、この件において、王錦衣は庭園によって禍の隙を開き、陸錦衣は権勢で人の産を奪って享受できなかった。これもまた子孫のために牛馬となる心を目覚めさせるに足る。王公子に至っては、愚かにして罠にはめられ、友人も親戚も舟の中の敵国となり、危うく危険なことであった。身を立てるには明哲でなければならず、人と交わるには慎重でなければならない。