第十回 窮途を済いて侠士金を捐ず 重ねて施しを報いて賢紳義を取る
嶒嶒たる気運は寒山のように勁く、懐いの期は万頃の瑠璃のように澄み渡り、熱き腸は縷々として尚も敬うべし。英雄の気性は、千金を惜しまず同病に周する。枯れた竹に息を吹きかければ清声が競いあい、憐れむに何も盟を結ぶ必要はない。劇孟・朱家を常に己の任と思えり。心は瑩として明らかなり、高き風格は古今にわたって歌われるに値す。右、《漁家傲》の調に倣う。
人として最も卑しいのは、吝嗇な一腸である。最も断ちがたいのも、吝嗇な一腸である。自分のことを言えば、たとえ銭が山のように積まれていても一文たりとも出し惜しんで軽々しく使おうとせず、米が太倉の如くあっても一粒たりとも軽々しく施そうとしない。他人のことを言えば、たとえ最も親しい友人が飢えと寒さの苦境にあっても、一升を得れば一斗に勝ると知りながらその一升を贈ろうとせず、患難流離の時に一銭を得れば十銭に勝ると知りながらその一銭を送ろうとしない。天道は盈ちることを忌み、奴輩は利に目が眩んで銖銖積み重ねたものも、ひとたび水火に付されるか、盗賊に奪われるか、役人に搾り取られるか、奸賊に騙し取られてしまう。甚だしくは家が衰えて嗣絶え、財産が族人に帰しても恩知らずにされる。あるいは勢いが衰えて財が尽きて他人の世話になっても、同情もされない。そこで初めて善きことには報いがあるという道理と、吝嗇の無益さを知るのだ。
それを知る豪傑は、もとより見通している。彼らは知っている、盈ちれば必ず欠け、集まれば必ず散ずることを。どうして潤沢な財産を抱えて人の嫉妬を買い、天の忌みを犯す必要があろうか。況や蛩蛩という虫も同伴の行を頼み、蠕動する微小な生き物も互いを恤むというのに、同じ歯と髪を持つ人間が、呼号する声を聞いても耳を貸さず、顛連する様を見ても顧みないでおれようか。ゆえに裴冕は家財を傾けて張建封に贈り、范純仁は石曼卿のために粟を周した。曼卿は古くからの友人だったが、建封に至っては全くの偶然の出会いだった。截発剉薦(髪を切り薦を刻んで馬の餌にし)して、雪の夜に范逵を腹一杯食わせた例に至っては、有余の家では決してなかった。ただ義を重んじ財を軽んじただけで、名声は千古に高くなった。
丈夫は声気を重んじ、朽腐など数えるに足らず。馮諼は昔「義を市(か)い」、名誉は無際に流れた。
ゆえに自分の持つものを割いて、人の窮乏を救うのは難しい。知り合いでもない人を救うのはさらに難しい。知り合いでもない人を救うのは難しいが、貧窮で借財に窮しているときにそれをするのは特に難しい。しかし侠烈の丈夫にとっては、まさしく難しくない。この人は嘉靖のころ、浙直の境界に近い平望のあたりに住んでいた。姓は浦、名は其仁、字は肫夫。父は米の売買を営み、家に一間の部屋があり、数畝の田と数両の銀もあった。幼いころから気が爽やかで奇を好み、父が果物を与えると、傍らに小僧が見ているのを見て、その小僧に渡してしまった。父は「俺がお前に節約して与えたのに、なぜ人にやる」と言った。彼は「彼も食べたいから」と答えた。人々は彼を阿呆だと笑ったが、彼の財を軽んじ人を惜しむ心は既に現れていた。
慷慨さは天より賦与され、匡済の志は宿命の如し。高位に登ることを待たずとも、三日間の慈雨を降らせることができる。
弱冠に近くなったころ、父母が相次いで亡くなり、彼は衣服・食事・棺槨のすべてに銀を費やした。さらに大きな墳墓を建てたが、石羊石虎だけが揃わなかった。人々は言った。「坊ちゃん、死んだ方は死んだ、生きている方は生きていかねばならん。いくらか銀子を残して口を糊するがよい。」彼は言った。「私の日々はまだ長く、きっと良い日が来る。そのとき衣服があっても親を引っ張り起こして着せることはできず、食事があっても引き起こして食べさせることはできない。後悔しても遅い。衣装と葬儀だけは節約できない。」人々はまた笑って言った。「この口達者め。本当に貧乏になったら、墳の上の木を切って数日分の薪にすればいい。その土地も、骨を掘り出せばまだ数両で売れる。まあ見ていろ。」しかし彼らは知らなかったのだ。
尺蠖(しゃくとり虫)には伸びる日があるが、九泉には帰る時がない。天下の節倹をもって戒めるな、木の風声に悲しみを深めるのみ。
浦肫夫は父母のために銀子を使ったとはいえ、生き方が賢く変通に富み、信義があり慷慨であったから、立ちゆくことができた。しかし慷慨ゆえに家を成すことができなかった。身辺に銀子が少しあれば、親友が喪中だったり、困窮して難儀しているのを見ると、渡してやった。銭が少しあれば、親友が商才はあるのに元手がないのを見ると、持たせてやった。家に数間の部屋があれば、師匠が死んで一間の家を売って葬儀を出し、妻子が行き場をなくしていると、一間を出してやった。族の叔父が七十で子もなく、身一つしか残っていないとなれば、引き取って養った。ある姑(従姉妹)が二十余年守寡して息子が不肖で面倒を見ないとなれば、引き取って養った。そうして家が片付かなくなり、人々は孤老院のようだと言った。
一身の寒士の面目を守ることを誓い、広厦(大邸宅)もためらわず手放す。
数畝の田があったが、族兄の浦其良が白糧の運搬中に嵐に遭って船が沈み、弁償できなくなって、その田を人に盗み売ってしまった。その人が土地を接収しに来て、族兄が請い頼むと、彼は争って弁じようともしなかった。人々が訴訟を起こせと勧めると、彼は言った。「族兄が不運にも公のために家を失うとは、義として佐助すべきだ。彼が借金を頼んできても応じただろう。すでに過ぎたことを、ただ銭を衙門に送って争っても何になる。」これでは臆病者や訴訟を恐れる者のように見えるが、他人の事となると、彼は敢えて行動して一度も弱腰を見せなかった。
杕杜(棠棣)には深い情があり、虞芮(隣国)の争いのように羞じることをしない。刚骨を負わせながら、なぜ女々しい行いをするのか。
近くの村に盛寡婦がいた。大家の出で、祖父が孝廉と通判を務め、夫は秀才だった。早くに夫を亡くし、幼い子が一男一女いた。先祖伝来の家屋が一棟と、二三百畝の肥沃な田があった。ところが甥が出来の悪い男で、彼女が孤寡の身であるのに乗じ、副使家にこれらの財産を投獻(権力者に献上して保護を求める)してしまった。代価を渡したかどうかもわからぬ。八九人の荒くれた僕たちが二隻の幔幕を張った船に乗ってやってきた。前には蛮石を積み上げ、艫には飛虎旗を差し、「陳府」と書いた大燈籠二基。飛板を出して三本の早い艪。密に叉・槍・棍・棒を構え、安泰に蛇蝎・虎狼を乗せて来た。到来すれば村の男女は戦き、見る間に家々の鶏と犬は尽きる。風の鳴る一声、岸に着く。望隆節鉞牌匾を担いで、そのまま盛家へ乗り込んだ。三四十年来の昭代循良の牌匾を外して、新しいものを打ちつけた。甥を連れて来て言った。「盛家は我が衙中の産価一千二百両を受け取った。家屋と田地、すべて受け取りに来た。五日以内に家を出よ。」また近くの小作人たちに向かって言った。「明日大相公が来て境を定める。お前たちは小作契約を書き直せ。」これまでの主管に申しつけ、一畝につき銀一銭、折東五分を支払ってはじめて耕作を認めると言った。寡婦が出て争おうとすると、この乱暴な召使どもは一言も聞かず、早く引っ越せ、見苦しいことになるぞと言うだけで、船に跳び乗り、鑼を一打ちして去ってしまった。
帝の宮門は叫んでも届かず、豺虎はまさに横行している。寡婦はまた怒り驚き、なすすべもなかった。
二人の帳方の管家が言った。「これは定めて族の者が投献したのだ。しかし産を得た者が銭を受け取り、産のある者が白白と家を出るという道理はない。」小作人たちも言った。「道理から言えばそうです。しかし今はもとより道理の通らぬ世の中です。別に小作契約を書き直して一畝半両ずつ取ろうとする上に、仲人にも銭が要る。どうして出てくるのか。城の郷宦(地方名士)の所有になれば、管家が出てきて催促取り立てをし、みな酒食の接待を求める。冬至になると管家たちは自分の家で食事をせず、小作人の家で散々ご馳走になる。朱签告示で一限二限三限と取り立てがあり、一粒も欠けてはならない。年が悪くて収穫が上がらなくても、一斗二斗少なければまだ勘定できるが、一石二石少なければ一年で倍返し。田産があれば田産を差し押さえ、田産がなければ身元を書かされる。田産を差し押さえられたらそれはそれで諦めるしかない。身元を書かされたら、毎年幇銀まで納めなければならない。幇銀が払えなければ連れ戻されて吊るし打ちにされる。打ち殺されても主家が使い捨て男を打ち殺しただけで、命を無駄にするだけだ。今の俺たちのこの村では、もう田も耕せなくなってしまう!」
蝗害が天から降るまでもない、苦しいのは人中の蟊賊のせい。通り過ぎれば地は赤く村は空となり、見渡せば煙も消え火も滅す。
ちょうど浦肫夫がやって来て、人々が呆然と立ち尽くして嘆き節を繰り返しているのを見た。彼は言った。「みなさん、私の言う通りにして、私と一緒に行ってください。陳家に産を奪わせることは包みます。」人々は言った。「どんな計がおありですか?」浦肫夫は言った。「陳衙は知縣を中人の門弟として頼っているから横行できるのです。しかしこの知縣は良い官をしたいと思っており、嫌疑を極めて避けます。まず明日、先手を打って大勢で縣に押しかけて訴えれば、知縣はきっと私の言うことを聞くでしょう。皆さんに助けていただくだけでいい。」人々は言った。「事が起きたら怖い。」浦肫夫は言った。「事が起きれば、すべて私が引き受けます。」人々は言った。「今日は良いと言っても、明日はやっぱり出てきてくれないのではないか。」浦肫夫は言った。「そんな道理があるものか!明日、打てと言えば打ち、止めと言えば止める。ただ致命傷は与えないように。」
馬陵では万の矢が待ち伏せ、兵糧を減らして狂夫を誘い込む。
翌日、果たして大きな船が一隻、五七隻の幔幕船を従えてやってきた。中には陳公子が座り、妓女二人を傍に置き、陪堂(付き人)二人を連れ、鼓を打ち鑼を鳴らして、この村へと進んで来た。この公子というのは──《黄莺児》:時服は黒の薄絹を試み、軽い衫の下から、艶やかな小さな桃。玉の環飾りが烏巾を低く押さえて巧みなり。靴の縁は一本の細い筋、歩みは軽やかにいくつか揺れて、緩やかに朱の履き物を引いて俏(きりり)と装える。風雅を気取って、実は肉麻なほど老けた様、本人は良い風采だと思っている。あの妓女と戯れる様は──前腔:濃く実った李の二枝は嬌なり、東風に騒いで、柳の枝を押さえ、揺れ揺れとして来たり去ったりして絡まる。花の梢に傍って一招き、花心に向かって一揺らし、顛狂たる体態は癒し難し。妖嬈(なまめかしさ)を悩ませ、蒹葭と玉樹、何の良い知り合いとか言っておる。二人の陪堂は──前腔:肩は泰山のごとく高く聳え、湯に落ちた海老のように腰を曲げ、人の言葉の終わらぬうちから先に「妙!」と呼ぶ。清らかな歌に扇で拍子を打ち、懇ろな様子で足労を惜しまず、低声でまるで人に知られるのを恐れるよう。心も焦るほど、「大叔」「大叔」と、管家の取り澄ました様子をおそれていること。
先に管家が岸に上がって、小作人たちに大相公のお出迎えをするよう言った。その浦肫夫が先頭に立って、六七十人ほどの一団を率いて岸辺へ歩いた。彼はあらかじめ人に岸近くの地面の泥を掘り起こして置かせていた。陳公子はまだ上陸しておらず、妓女を抱いたまま船の窓に凭れて見ていた。すると浦肫夫が彼に向かって叫んだ。「どこの郷宦が、人の田産を占めてもいいと思っているんだ!」陳公子が顔色を変えて、どこの者かと言いかけたとき、浦肫夫が「打て!」と叫んだ。岸の人々は一声喊を上げ、泥塊が雨のように降り注いだ。
重耳が衛に至り、野人が土塊を投げた。これもまた大いなる恥辱、自ら招いた怒りの果て。
幔幕船は慌てて向こう岸へ漕ぎ寄せたが、それでも半船ぶんの泥塊を受けた。大船は急には動かせず、後部の梢が慌てて二本の艪を漕いだが、一歩も動けなかった。前後の纜はまだ解かれていなかったし、板戸はことごとく打ち砕かれていた。卓の上の碗・盞・花瓶・香炉はみな打ち壊された。人々は隠れる場所もなかった。浦肫夫は、公子と悪事を助けた家来だけを打って、陪堂と二人の妓女は打つなと叫んだ。陪堂はすかさず妓女の傍に隠れた。管家の一人が公子に向かって言った。「岸の人々がみんなあなたを見ています。早く頭巾を取って外套を脱いで、船尾に来てください。」公子は言われた通りにして、梢に向かって這い上がり、艪にしがみついて梢公のふりをした。尾の纜は刀で切られ、頭の纜は揺さぶられて千切れ、ようやく対岸に着いた。浦肫夫はすでに新しい牌匾を、船の上から打ち砕いていた。
新たに運ばれた匾額を送り返す、まるで去年の桃符(年末の縁起物)を取り外すよう。
陳公子は逃げ帰ってすぐ人に状を書かせ、「地虎(やくざ)に打ち強奪された」と訴えた。しかし浦肫夫はすでに人々と連れ立って、縣前で訴えを叫んでいた。縣官はかねてから陳家が横暴であることを知っていた。今度は浦肫夫が訴え、人々が泣き叫んで「彼は盛家の孤寡を侮り、田産を白白と占め、農民から横に家賃を取り上げている」と言った。知縣はただちに人を遣わして陳家の者を逮捕し、農民たちを宥め、元通りの耕作を認めた。陳公子は今度の打ち強奪を訴えることもできなくなり、地券の購入を弁じに来た。知縣は言った。「孤寡の田産を、本人が契約書を出さないのは、明らかに投献したのだ。この乾の家来たち、処罰しなければなるまい。」公子は「父の面目を思ってください」と言った。知縣は「それゆえに老師(陳公子の父)のためにこそ」と言い返した。再三懇願したが、ただ仲人と盛家の甥を重く処罰して、投献の道を断つにとどめた。浦肫夫のこの一挙で、陳公子は産も奪えず、かえって一敗地に塗れ、船を一隻壊された。羊肉を食べるどころか、体中羊臭くなって帰っただけだった。
これで人々は知った。浦肫夫が自分の田産を人に盗み売られても構わなかったのは、無力だったのではなく、ただ財を軽んじ義を重んじていたからだと。
ある日、町で帳の取り立てをしていると、所属の里長の戴氏に出会った。条銀を納めに来たのだが、縣前で賊に懐中を掏られてしまい、上納できなくなって困っていた。役人もまた比卯(叱責)を迫っており、非常に慌てていた。浦肫夫が事情を聞くと、自分の身辺から六七両の銀子を探し出して渡し、責め打ちを免れさせてやった。
西江の水も要らぬ、干上がった魚がすでに蘇生した。
この里長も家産があって面目を重んじる人だった。彼の助けに深く感謝し、言った。「一般に甲首が里長に会えば、苦しいふりや貧しいふりをして、丁銭を一二銭もらおうと、幾度も往来する。この方はこれほど慷慨で、良い人だ。」家に帰ってすぐ、この銀子の元を返しに来た。浦肫夫は「ゆっくりで構いません、そんなに急がなくても」と言い、食事に引き留め、自ら料理した。里長は彼の婚事が高すぎても低すぎても決まらないと聞いていたので、言った。「弟さんはもう二十を過ぎた、なぜまだ嫁がいないのか。私が見るに、米の売買は生活費にはなるが、家を持つには至らない。私に銀子が少しある。無利子でお貸しするから、もう少し遠くで商売をやってみては。」翌日、人を遣わして彼を家に呼び、二百両の銀を取り出して言った。「少なすぎて活計にならないと思えば、十日余り後にまた百両を揃えましょう。」
長い袖は舞う人の力となり、宝剣は烈士に献ずるもの。
浦肫夫は吉日を選んで銀を腰に帯び、船を一隻雇って常州に向かった。呉江を過ぎて五龍港に近づいたとき、一隻の船が岸辺に横たわっているのが見え、三人が向かい合って痛泣しており、また三四人が地面に座ったり横になったりして呻き苦しんでいた。浦肫夫は言った。「これは必ず強盗に遭ったのだろう、どこへ行くかわからない。天気も寒く、衣服も剥がれていては、凍え死ぬかさもなくば病になってしまう。救わねばならぬ。」船頭は言った。「出発したばかり、こんな縁起でもない。関わらずに行きましょう。」浦肫夫は怒鳴った。「止まれと言ったら止まれ、まだ漕ぐか。」船頭はやむなく寄港した。浦肫夫が船に跳び乗って聞くと、福建の挙人たちだった。一人が林、一人が黄、一人が張。ここで盗賊に遭い、荷物を奪われ、供の者は打ち傷を負い、衣服は剥がれ、京師へ向かうも故郷に帰るも進退の資金がなく、だからこそ泣いていると訴えた。浦肫夫は言った。「皆さん、京師に行くにはいくらあれば足りますか?」林挙人は言った。「道中費が一人三十金。今のところ、衣服や寝具類にも十余両は必要です。」浦肫夫は言った。「それならご心配なく、みなお引き受けします。近くに蘇州があります。ここで揃えて北上してください。」近くの村で、白い酒を少し買って彼らを温め、自分の夜具も渡して風を防がせた。
風雨の緑林の夜、誰が范叔の寒さを憐れむ。衣を脱いで食を推し分け合う、この徳は肝に銘じたく思えり。
蘇州の閶門の辺りに彼らのための宿を見つけた。毛氈を買い、絹と布で寝具を作り、三人の挙人のために衣服を作らせた。単(名刺)を失っていたので、府中に照合書を申請した。さらに路銀三十両を贈った。三人は姓名と住所を聞いて言った。「いつか必ず御恩報いします。」二手に分かれた。この三人は病んだ鳥が弾丸を逃れ、遥かに大空に翼を広げるが如くであったが、この浦肫夫は──
馮諼は義を市(か)って帰り、琴を叩いても何と寂しいことか。
今はまた元の米の売買に戻るしかなかった。家に帰ってみると、ちょうど戴里長に出会った。「浦兄、どうしてこんなに早く帰ってきた。どれだけ商売できた?」浦肫夫は言った。「五龍港で三人の会試挙人に遭いました。強盗に遭って荷物も道中費もなくなっていた。大半を贈ったから、今はまた元の米売買です。」他の人ならば「きっと誠実さに欠ける人物だ、嫖(遊女遊び)に使ったか、賭けに使ったか、あるいは人を騙してこんな嘘をついているのだろう」と言うだろう。しかしあの戴里長は彼が侠の人だと信じ、少しも疑わず、ただ「私のあの百両は用意できました、取りに来て使ってください」と言った。浦肫夫も辞退せず、さっそく取りに行った。
取ることと与えること、互いに我も彼もなく、肝胆は遥かに照らし合う。管鮑の貧交の時、後世に同じ道を歩んだ者を想えり。
浦肫夫はもともと手腕のある人だった。戴里長がこれほどの待遇をしてくれるのを見て、自らが商いをすれば、これも実を結ばないことはなかった。
かの三人の挙人たちも、窮途の際のことを思えば思うほど、もし親友でもこれほど目をかけてはくれまいと思った。商売人が毫釐の上に苦労し、食うことも着ることも惜しんでいる人が、どうして一面識もない者のために百余金を捐ずるだろうか。まさしく天が我ら三人を見捨てなかったのだ、この方の高い情誼は泯滅させてはならない。今我ら三人の中から一人二人でも出世すれば、彼に報いに行くべきだと言い合った。ちょうどその年、三人は揃って進士に合格した。浦肫夫は家で小録(合格者名簿)を買って読み、言った。「彼らを救ったのも無駄ではなかった。いずれにせよ命に進士の道があれば、俺が救わずとも誰かが救っていただろう。」
先に人々は彼が三人を救ったと聞いて、ある者は言った。「良い人だ。銭財は得難いものを、惜しみなく出した。」またある者は言った。「他人の研究の砥石の役をした。与えた銭は戴家の銀子で、彼がいい人を演じたのだ。」さらに別の者は言った。「他人の銀子であっても、その好意は得難い。将来利息をつければ、家を養い口を養えた。今や三十余人(養っている者)もいる。その銀子で嫁を一人もらえた方がよかった。しかもこの三人、本当の挙人かどうか知れたものか。そもそも読書人は薄情だ。銀子を与えるときは一つの顔、銀子をもらうときはまた別の顔。水の中に捨てた方が、まだドボンと音くらいするというもの。昔から良い人は阿呆の代名詞と言う。小浦も本物の阿呆だ。」
啾々と燕雀は騒ぐも、鴻鵠の心を誰か知らん。
この時、科場の発表があったと聞いて、訪ねてくる者があった。「三人の中に合格者は?」浦肫夫は答えた。「みな合格しました。」その人は言った。「それなら一生食うに困らないぞ。誰かに通啓(感謝状)を書かせて、礼物を揃えて人を雇い届けさせ、お祝いを言いに行くべきだ。縁を冷まさないよう。」浦肫夫は言った。「あの日は一時の気持ちからしただけで、もとから交誼を結んで恩返しを期待する心はなかった。今は人の情誼がどのようなものかわからぬ。むしろ彼らが俺を憶えてくれていればいい、俺が虚しく彼らに期待することはしない。」そしてその件は脇に置いた。
一飯の恩を自ら国士のものと憐れむ、千金(の返礼)をどうして王孫に期待しようか。
ただあの三人の合格者は、ますます浦肫夫のことを思っていた。「あの日、彼の路銀がなければどうして京師に行けて、この功名が成せただろうか。彼が衣服を作ってくれなければ、凍え死んで官など務めることができなかった。」三人は相談して、浙直の地方に彼に近い場所を探して、彼の面倒を見ることにしようとした。
恩は肺腑まで滲み渡り、感謝は朝夕の間に収まらず。隋侯の珠をもって、この情の縷々を報いんと期す。
期せずして黄進士は兵部主事に選ばれ、林進士は翰林院(館)に選ばれ、ただ張進士だけが人を通じて頼んで、常州府推官の職を得た。この両直(浙直)というのは、按察による巡察が頻繁な難しい地方だった。撫按の他に、操院・漕院・学院・塩院・巡漕・巡青・巡江・京畿などそれぞれが挙劾権を持っており、良ければ再び挙げられ、劾されれば再び立てられない。それほど難しい地方だったが、彼はただ恩返しの心が急いていたため、やむなく就任した。出発に際して、林・黄の二位から礼物と書状を添えて張四府(張推官)に託された。城外で餞別の宴が催された。林と黄の二位は言った。「浦肫夫は患難の友、今日は兄(張)がわれらのために彼を見てほしい。いつか我らも兄の代わりに見るとしよう。彼がやって来た時、布衣であることを嫌って欲しくない、格を破って丁重に遇してほしい。」張四府は言った。「これは私の事として、力を尽くすに変わりはありません。」
ただ恩を受けた箇所は、心に刻んで敢えて忘れまじ。
張四府は常州に赴任した。一般に運動や結納をしてくる者は冷めた竈にも火を付けようとするものだが、彼は離さなかった。合格のお祝い、赴任のお祝いと来て、半年三ヶ月も経てば早速利益を求めにやってくる。浦肫夫は商売の人間で、その方面は不得意だった。また恩返しを求める気持ちも薄く、邸抄(官報)を探したり大選報(人事報告)を見たりしなかった。常州は彼が出入りする道中だったが、推官があの日救ったかの張挙人だとは知らなかった。かえって張推官は彼が訪ねてこないのを見て、銀二十四両と潞綢(上質の絹)二匹、自筆の手紙、それに林・黄の二位の書状と礼物を人に持たせ、彼を探しに行かせた。米の売買をしているところで探せと言ったが、二日かかっても見つからず、家に行っても不在だった。隣人に聞くと「彼は日頃から江湖の上にいることが多く、ほとんど家にいません」とのこと。「いつ帰りますか」と聞けば「旅の人のことは、どうして定められましょう」とのこと。家族のことを聞くと「三十余りで、進士・挙人・監生でもない、ただの商家の者。どうしても名門大家の娘でないと嫌だと言って、後家や農家の娘は肯かない。今は妻もなく、鉄将軍(強固な鍵)が門を守るばかり」とのことだった。使者はやむなく報告に帰った。
自ら丹穴の雛(鳳凰の若鳥)だと思い、碧梧の木に宿を求めるもの。蕭々とした枳棘の林には、その足先を降ろそうとしない。
張四府は首を振って信じなかった。「探し方が違うのだろう。百余両を出せる人が、中年でまだ家室もないわけがない。」ちょうど書状を書いて沈同年に頼んで訪ねさせようとした矢先、代巡の蘇州査盤の命が下った。彼は蘇州に着いて、すぐに呉江の査盤を発令した。
このとき、ちょうど浙直一帯は旱蝗(日照りと蝗害)が重なり、米価が暴騰し、糴糶(米の売買)で大きな利を得る者が続出していた。浦肫夫は団風鎮から米五七百担を仕入れて京口へ運び入れた。ところが戴里長の息子が事件に巻き込まれたと聞いて、仲間に船を任せ、自ら家へ戻ってことを処理しようとした。里長の息子・戴簪は呉江の庫吏を務めていた。縣官が上京の際に庫から銀を支出し、自分の名義の紙贖(借用書)で補填していた。また次年の役人・人夫への工食(生活費支給)を前払いにして、一つには恩を示し、一つには自分の口銭も得て、入覲の費用としていた。ところが着任した三府(知府)が、最初は前任者の無責任な引き継ぎを恐れ、後になってただ庫吏に帳簿を算盤させるだけになった。補填分については「他人の尻ぬぐいはしない」と追比(追及)を拒み、前払い分については「俺の飯碗の分を食ったのか」と削除を認めなかった。みな庫吏の横領として、弁償と軍籍降格処分を求めた。
常に権力者は強奪すると言う、なぜ他人のために泥棒をするのか。行取科道(要職)に行かせながら、ただ吏胥に利息を取り立てるのみ。
浦肫夫が人を通じて交渉した。「工食は支給すべきものだが、ただ早すぎただけ。今では一口分の工食の頭除(差し引き)を代わりに出します。紙贖は庫吏が二割利子加算の例で弁済させ、三府に追比補庫を求めてください。」まさにこの交渉中に、陳公子(前回の一件で浦肫夫に事を起こされた者)が浦肫夫を首謀者と恨み、体面を傷つけたと思っていたが、縣令がいる間は手を出せなかった。ところが縣令が去ったのを見て、浦肫夫の米船を探り出し、呉江に近づいたところで人を遣わして阻止させた。禁を犯して牟利し、越境密売したとして首告し、三府は浦肫夫を逮捕して、封皮を二つ船に貼り付けた。官没しようとしてまた価格を言い立ててきた。民のためにならず、ただ自分の詐欺の口実を開くためだけだった。
ちょうど張四府がそこへ到着し、公事を済ませて送り出す際に言った。「この辺りに浦其仁という者がいれば、ご访問ください!」この「访(訪ねる)」の字を、三府は誤って理解した。退席して心腹の吏書に言った。「この地方に浦其仁という土豪がいるか?」吏書は「今、密売の件で、ご牢屋にいます」と答えた。三府は「きっと按院が彼を欲しがっているのだ。明日まず批解して、査盤廳へ送れ。」翌日解送となり、浦肫夫は「上司に会えるのだから、私は喜んで行く。私の船は湖廣の船で、蕪湖や許墅にも船票がある。禁は本地産物を売り出すことにあって、他の地から運び込むことは禁じていない」と言ったが、解人はすでに鉄鎖をかけていた。廳前に着くまでに、皂甲の炒班の銭も五七千銭を取られた。さらに打ちの銭も言われるがままに出させられた。廳に入って批を投じると、解子が申し述べた。「浦其仁、解送参りました!」四府は慌てて頭を上げると、浦肫夫が鉄鎖をはめられ、丹墀に跪いていた。四府はすぐ解人に向かって言った。「誰が鎖をかけるよう言った!早く打て!門を閉めて、鎖を外せ、浦相公の方巾と衣服を持ってこい。」自ら廳から下りて、一手で引き起こし、後堂へ引いていった。浦肫夫はあの張挙人だとわかった。
縲紲(鎖縄)に繋がれた哀れな猿よ、薏苡(いよく)の冤罪を誰が明かすのか。その南面に坐す者が、昔の旧王孫だったとは。
廳の外から吏が頭巾と道袍を借りてきて、浦肫夫に着せようとした。浦肫夫は「罪人には勿体ない」と言った。張四府は言った。「縣官が私の訪問状を誤解して、こういうことになりました。恩兄はどうか恨まないでください。」浦肫夫は言った。「実は米の密売として誣告に遭い、さっきまで牢に入れられていました。」四府は言った。「どんな事でも、弟が在る限り大丈夫です。」どうしても客と主の礼で座らせ、銀一両を出して縣中に食事を用意させた。そして言った。「林・黄の二年兄が宜しくとのこと、礼物と書状を以前に差し遣わしました。兄に家室がないとのこと、本当ですか?」肫夫は「まことです」と言った。四府は「兄はいつ連れ合いを亡くされましたか」と聞いた。肫夫は「一度も娶ったことがありません」と答えた。四府は「それは奇妙だ、どういうわけですか」と言った。肫夫は「実は高すぎれば届かず、低すぎれば肯かず、とうとう今日まで機を逸してしまいました」と言った。四府は「それなら兄は十余年の青春を虚ろに過ごしたのですね。弟が沈同年に頼んで兄のために良縁を探します。きっと良い縁者を得てみせます。」
兄の才能は伯鸞(梁鴻)に匹敵し、孟徳耀(孟光)の如き女性こそ相応し。翰を染めて春山に向かえば、艶やかに一笑みが成る。
また言った。「兄に何か事があれば来て話してください。門番に、名刺がきたらすぐに取り次ぐよう言っておきます。」肫夫は「一つ、すぐにはお話しにくい事があります」と言った。四府は「何でも話してください」と言った。浦肫夫は言った。「その仁は三十になっても妻がなく、どうして余財があって人に施せたのか。実は義兄の戴雉城(戴里長)が資本を貸してくれたからです。あの日の施しも、彼は恨み言ひとつなく、またこちらに資本を貸してくれた。その仁が恵みを行えたのは、戴兄あってのことです。戴兄の資本がなければ、その仁は熱い腸を持っていても、お助けできる手段がなかった。今その息子が庫吏となって前任官が使った分を後任官が清算してくれず、横領の罪に問われようとしています。大人がこれを晴らしてくださるなら、まさに源をもって恩に報いることになります。その仁はでたらめを言って得をしようとしているのではありません。」四府は言った。「戴兄の事は兄の事、明日呈状を一通持ってきてください。弟がすぐに解決します。これ以外にも大事な事があれば遠慮なく言ってください。兄のために産を設け妻を娶る費用を出しましょう。」
恩は一飯の深さを受け、報いに千金を惜しむ敢えてなし。漂母は(返礼を)望まずとも、韓侯(韓信)は自ずと(報いる)心を持つ。
翌日、それぞれ呈状を出した。四府は三府に面と向かって言った。「米は楚中(湖廣)から運ばれたもので、各関所の税票があります。これは境内から売り出したのではない。むしろ首告した者を厳処して、買い占めの風を止めるべきです。戴吏の紙贖は、補填には発落帳があり、これは前任官の常にすることです。寅翁(三府)には一追比の労をお願いするだけです。工食には受け取り状があるので、吏の横領ではありません。この二件の呈状はいずれも道理があります、寅翁にひとつ処置していただけませんか。」三府は戻って、浦肫夫の米船を即刻放行した。没収は成らず、かえって首告した者が打たれて枷首にされた。戴簪の事は、補填分は追比・給付が認められ、前払い分は銷冊(清算)に入れられた。軍罪など問われるべくもなかった。戴家はまた自ら払おうとしていた頭除・分例の出費も省けた。三府は今度は浦肫夫が放った赤い鼠(うわさ)を恐れ、戴吏に打ち合わせさせて、何か事があれば言ってきて四府への贈り物の助けをするよう言ってきた。
上官が腹を立てれば、下官はその足を支える。一語が春の温もりのようであれば、枯れた黄が緑を生ずる。
沈進士はこの同年の公祖に取り入ろうと、媒婆を差し遣わして浦肫夫のための良縁を探した。偶然にもかの盛寡婦の娘の事が出た。すでに十七歳、寡婦は彼の恩義を思って、財礼を問わずに即座に承諾した。
あの年に義を行いし時、すでに赤い糸で結ばれていたのだ。
四府は時々廳の吏を遣わして意向を聞いたが、浦肫夫は言った。「張爺の縣綱の衙門に、私は気後れして行けず、事も話せません。」張四府は申し訳なく思い、沈進士から二百両を借りて聘礼・婚儀の費用として送った。この沈進士は二百借りた以上は、四百は取ったと言わなければ気が済まなかったが、まあ命の通り。こうして浦肫夫の婚姻は遅くはなったが、終に名門の艶やかな女性を得た。
明月は空の床に笑いかけ、絹の夜具は余りあるほど。嬋娟(美人)を新たに得て喜び、清らかさは芙蓉に勝れり。
張四府は彼の性格をよく知っていて、銭財を急がず、軽々しく来て迷惑をかけることのない人だとわかっていたので、みな自ら送ってきた。最も軽いものでも百余両から話が始まり、門を叩いてくる商売はやりやすく、他所に行かれる心配もなく、どんどん価値が上がっていった。あの肫夫は張四府の名声を傷つけることを恐れ、人の怨みを買うことを敢えてしなかったが、それでも三四件は融通し、千余金ほどになった。
かつて浦肫夫には家室がなく、呉の辺から楚の辺まで日々外に出ていた。今では三十そこそこの若さで可愛い妻を抱え、あなたが貪りこちらが愛でる日々。江湖の危険など忘れて外に出たいとも思わず、元手だけ出して数人の仲間に水商いをさせた。先祖伝来の家屋は長く使っていなかったので傷んでいたが、今は前廳後楼を新たに改築した。二畝の田は族兄が売り払っていたが、買い戻した。かつて横暴だった陳公子は父が任地で死んだ。日ごろ投献した田産や子女を代価にした者たちがみな訴え出てきた。官訟が長引いて家財が消耗し、かえってその田産を売るはめになり、彼がことごとく高い値段で買い取った。
逆らって取ったものは守るのが難しく、不当に入ったものは必ず不当に出ていく。沧桑(世の変わり)は須臾のうちに変わり、貪夫よ、これを知れ。
かつての浦肫夫は倒れても起き上がる逆転の鬼だったが、今は田舎の地主になった。
こうして一年余り経ったころ、黄主事から張四府に書状が届いた。「浦兄の家室の事は、年翁がすでに任を果たした。前程(官途)の一節は、弟が一臂の力を貸す、北上させるべし。」黄主事は彼のために監生の資格(納監)の手続きをしてやり、同郷の保証人を探し、銀を納めて本籍地へ移文を出させ、里甲の証明書を取り、張四府に北上への手配を頼んだ。浦肫夫は美しい妻と豊かな産業、前に池・後に庭と存分に楽しんでおり、外へ出ようとはしなかった。今は無理やり引き出される形となり、張四府はさらに二三件を探して五六百金と合わせ、安家費と旅費として与えた。以前の浦肫夫は偽の頭巾をかぶっていたが、今は本物の頭巾。以前は役人の前では頭巾と丸領(官服)で礼部儒士の身分、今は正真正銘の北雍(国子監)の監生だった。
ただ黄金が多ければ、頭角も自ずと変わる。何も学の海に沈みながら、夜の灯に向き合い続ける必要もない。
浦肫夫は戴家への情を最後まで忘れず、戴簪のために二考(試験)への出願もしてやり、一緒に京に上った。
京に着くと、林・黄の二位がすぐに会いに来た。林吉士は自分はあまり力になれなかったと言い、その親戚で南直学院を務める者に頼んで浦肫夫の名義で入学させようとしたが、肫夫はそれを戴里長の次男・戴纓に回した。しかし彼への恩義はまだ尽きず、浦肫夫がまた前の経緯を話して戴簪を林・黄の二位に引き合わせると、二位もまた礼をもって遇した。肫夫の京での路費と、監での贄儀(入学礼)はすべて黄主事が負担した。一年後、二人が彼のために手を回し、ついに歴滿撥歴(勤務期間満了で次の任命)となった。この時から肫夫と三位の患難の友として付き合って、はや四年が経っていた。林吉士は散館(翰林院研修終了)して、浙江道御史の職を得た。黄主事は吏部験封司主事に転じた。吏部の官が吏部のことを言うのは、きわめて容易なことである。二人が援納・試験で、浦肫夫は県丞の職を、戴簪は典史の職を得た。紫綬金章(高官の証)こそ手に入れられなかったが、民を治め養う親官にはなれた。
銭もあれば勢いもあり、できないことはない。二人はやはり候選(赴任待ち)となった。しかし期せずして林御史の輪番が当たり、浙江に赴くこととなった。黄主事の寓所に自ら行き、「この度の担い荷は私に渡してほしい。ただ私が浙江を巡按するとなれば、浙江の欠(ポスト)を人のために頼むのは都合が悪い。それは年翁(張四府)に頼む。」黄主事はまた手腕を発揮し、一方には烏程の管糧縣丞、一方には長興の巡捕典史の職を割り当てた。二人は辞令をもらって黄主事に礼をして京を出た。黄主事はさらに数封の懇切な書状を守巡の堂尊四府に渡してやった。ただ友誼の重さが丘山の如くなれば、報いに蛇鳥の如く(身を屈めること)を惜しまないのだ。
京を発って常州に至り、張四府に挨拶した。張四府は彼らが京に上ってからも、時々人を遣わして礼物を贈り面倒を見てきた。今回も赴任の費用を贈った。二人は家に着いて、客への拝礼・祖先の祭祀・一帯の披露をひとしきり済ませ、家眷(家族)とともに赴任地に行って薦書を差し出した。吏部の書状があって、奉承しない者はあるまい。批詞(評価)はすでに外れることなく定まり、林按院が到着すると、さらに良い任務が巡ってきた。上司は彼らと代巡との繋がりを知って、さらに便宜を図ってくれた。二人は任地で、合わせて五六千金を得た。任満となって、この三人の力をもって、浦肫夫はさらに沔陽州州同の職を、戴簪は陳州吏目の職を得た。三人は依然として庇護を怠らなかった。
しかし二人はむしろ物事の始まりと終わりをよく見極めて言った。「銀子は多少あれば十分。日々人に跪いて拝礼するくらいなら、冬は炉辺で骨柮を煨いて白酒と黄鶏を楽しみ、夏は緑の木陰に浮き草と蓮の花、青い菱と白い蓮の実を愛でる方がよい。」ともに致仕(引退)して家に帰り、快楽に暮らした。
つまるところ傑出した士は、拚じ(覚悟)ができているものだ。貧しいときも財を拚じ、得意な時は官を拚じることができる。どちらも財を軽くみることの現れである。ゆえに浦と戴はともに世に難しい人物であり、三君(林・黄・張)の厚い報いも、過ぎたることではなかったのである。