第七回 燕翼を失うは貪りに法を作るがゆえ 箕裘に堕ちるは不肖の後に因る
貪淫に法を作れば、すでに先に涼しくなる、燕翼などとても義方の欠くを補えぬ。
狗狗のように名を貪り、ただ近道を好み、蠅蠅のように諂いを学び、ただ壁に沿うてのみ歩く。
古来、悖りて入りしものは終に出でねばならず、荒淫は昔より必ず亡を招く。
賢に似た者と言ってまた笑われ、彼の五桂日に芬芳たるを羨む。
左伝に言う、「子を愛するならば義方をもって教え、邪に入らしむることなかれ。」子を教えることは第一の事である。子孫の賢否は、ただに一生の禍福にかかわるのみならず、祖先の栄辱にまでかかわるものだ。これほど重大なことに、心を尽くして教え諭さなくてよかろうか。俗に言う、「愛は心の中にあり、狠は顔の皮にあり。」虎や狼を除けば、どこに親子の情がない者があろうか。しかしただひたすら溺愛して、食わせ着せ、肥えた顔の太った身体を作り、錦や綾を纏わせ、見目は麗しくとも、中身は行屍走肉に等しい。愚鈍では人に軽んじられ、軟弱では人に侮られ、それだけでも祖先の汚点となる。それだけでなく、強暴な者は剛ゆえに禍を招き、放蕩な者は放縦ゆえに家を破る。これはすべて父母に見識も教養もなかったからにほかならない。愚鈍な者は開発してやれず、明智にさせることができない。軟弱な者は奮い立たせてやれず、決断力を持たせることができない。強暴な者は抑えてやれず、温和にさせることができない。放蕩な者は節制してやれず、慎み深くさせることができない。これを材に随って器使い、病に応じて薬を与えるという。たとえ凡庸を賢哲に変えることはできないとしても、駑下を中材へと進めることはできる。この教えの方法は、古人には胎教というものがあった。この道理は誠に正しいが、実行しがたく、ただ父の厳と母の慈とが相まって、その責は父親の上にかかっている。
家に厳君あれば、賢子は多い。肯構し肯堂として、誉れは奕世に流れる。
父が子を教えるには、身教というものがある。身教とは、自分の身を手本として子に示すことである。自ら父母に孝行し、顔色を察して志を養い、心を尽くさぬことなく。兄弟に友愛をもって接し、心を同じくして急難を助け、篤く愛し敬うことを欠かさない。夫婦は仲睦まじく、賓を敬うように互いを敬い、反目することは絶えてない。友人には信義をもって接し、切磋砥礪し、久しい約束を忘れない。いったん臣下の立場になれば、身を忘れて国に殉じ、身家を顧みない。処世において正直であるが、それは傲慢や强硬ではない。謙厚であるが、それは卑屈な諂いではない。家では節倹であるが、それは吝嗇ではない。家の備えは整っているが、それは奢侈ではない。大智は愚に似て、大巧は拙に似て、世にも軽んじられず、世にも忌まれない。子孫がこの賢を見習えば、過ちは生じようがない。また言教というものがある。言教とは、言葉によって子を化誨し、導き示すことである。道理が明らかでなければ、丁寧に解きほぐしてやる。世間の事情に通じていなければ、一つ一つ指し示してやる。善いことや善い人には、それを見習うよう教える。善くないことや善くない人には、それを鑒戒とするよう教える。何度繰り返すことをいとわず、勤め励ますことを続ける。
身をもって典型を作り、訓誨もまた惜しまない。賢愚の転移する間に、木は縄を借りて直くなる。
もし自分が善き人になろうとせず、善いことを語ろうとしないならば、子弟の中に、教え諭しがなくとも、過ちを蓋い家業を盛んにする者が果たして何人いようか。これではただ家を破り名を滅ぼし、人の笑いを買うだけである。
明代、中州にある縉紳がいた。姓は呂といった。本人は孝廉であったが、自分より優れた者に対しては甚だしく小心翼々とし、目下の者には甚だしく傲慢であった。人の銭財を求めては体裁も省みず、鑚営もいとわず、若干の書の力で举人を得た。举人になると書はさっさと後に放り、ただ酒と女にふけった。人の良い田地があれば百計でそれを謀り取り、人の良い婦女があれば心を尽くして手に入れようとした。百姓は蛇のようにこれを恐れ、上の役人ですら蠍のようにこれを恐れた。四十余歳になり、もはや科挙で合格することはないと見切り、官職を得ようと動いた。千金を使い、儀真の知縣の職を得た。着任すると、郷紳や挙監の生員が挨拶に来れば満面に春風を装う。贈り物には盤盒だけを返す。銭糧を徴収すれば、賦役の手数料に一割五分を上乗せするのが当然とした。訴訟を審問すれば、原告も被告も証人も、みな一人につき一両から三両。食材を買えば、一両の品物に三四銭しか渡さず、しかも一年分を先に領させた。銭糧を支払う時は、十両から必ず一二両を差し引き、さらに一年分を前もって借りると言う。強盗を捕らえれば、その売買が来たも同然。今日一人を引き込み、明日一人を引き込み、銭を得れば釈放した。土豪を訪問する時には、銭を詐り取る柱も同然で、こちらで一人捕らえ、あちらで一人捕らえ、物があれば手を引いた。郷紳に阿諛して、その人情を聞き入れ、借金の取り立てを手伝い、百姓の受難も省みない。生儒を糊塗し、徳政を称えさせ、京の行啓に留まらせようとし、結局は黎民が血を出すばかりである。衙門の役人を待遇するに、重い礼なくしては差委を与えず、重い贖なくしては批詞を渡さず、みな銭を稼がせる道具とした。吏胥を待遇するに、かつて打ち合わせた者には多く行わせ、捜索が上手い者には多く差し使い、誰も彼もが使い神となった。上司が貪欲ならば銭を与え、貪欲でなければ分上を探した。考語にはいつも瑕疵を美点として書き、考察では誤魔化せる時は誤魔化し、誤魔化せなければ鑚営し、毎度替え玉を立てた。
天に目なしと共に嘆き、地に皮なしと群れて驚く。狼の貪りに虎の暴虐を兼ね、縣全体が災難を受ける。
生儒を考較することは正当な職務であるが、一等の頭には郷紳の子弟、一等の末尾には自分の金神を置く。肉の食事を供え節に贈り物をする者は別の等に置き、孤立無援でも才のある者はすべて落とした。童生の案首は絶対に受からせてよく、決めて三百両を取った。三十名以内で府試に期待できる者からは、定めて三十両。稟生を申し込む時、科挙を申し込む時、いずれも銭を得た。郷紳は口と心が一致せず、士民の積んだ怨みと怒りは深かった。八差地方でこのような官をすれば、一日も安心して身を置けないはずだが、鑚刺に抗うことができず、言っても聞かず道理も通らぬという毒心と、打たれても怖くなく罵られても怖くない面の皮の厚さに任せて、三分で人と結び、七分は己の手に入れ、上位への礼儀は欠かさず、京中への書帕も少なくなかった。こうして五年を混ぎ、科道の中にも自分を守ってくれる千両の後ろ盾を見つけた。さらに吏部に数百両を使い、分上を見つけ出し、部属の地位を得た。
金多ければ誉れも重く、財が盛んなれば官職も昇る。扉という扉を通り抜けて、ただひたすら鑚いた。
部で冷え切った椅子に座っているうちに、分上を使って九江の抽分の職を謀り得た。関門には、すでに多くの包攬の渡世師を抱えていた。その上に白役の巡攔もいてもう十分であったのに、さらに家人を差し遣わして長江の大船を捜索させ、重積みの報税を狙い、荷を下ろして検査する名目でいたずらに難を作り、二倍の税を搾り取り、隠し荷物が見つかれば十倍とした上に罪まで問うた。品物を白ただで献上させても、まだ足りないほどであった。大商人はこぞって冤を訴え、小商人もみな口々に不満を言った。
利は錐の先ほどにも及び、搜求には苦労もいとわぬ。誰が憐れまん、行商の者たちを、辛苦して驚涛を渡るに。
長江の風水は広大で、彼はそこで難を起こして詐銭を要求した。大船数百隻を関口に繋ぎ止めた。風が強い時は互いにぶつかり合い、ある日、客船を阻止していたところ、突然の大風で錨も綱も制御できなくなり、相互衝突で船が砕け、死者は数百人に及んだ。すべて彼の貪利と詐銭のためであった。客商は利を得るどころか、命すら保てなかったが、彼は一向に意に介さなかった。ただ人々は言った。本人に禍が及ばずとも、必ず子孫に及ぶと。一年の任期が満ちて、銀十余万を得た。自ら阿諛奉承を得意とし、銭を惜しまず使えることを頼りに、さらに二年こらえれば知府も夢ではないと思っていた。ところが天道は誤魔化しがたく、離任の時にも、いかにも遊び人の百姓を数人見つけて草履を脱いで引き留めようとさせた。無実に苦しめられた者たちは仇を見るように憎んでいた。離任の時にも、曲がった老秀才を何人か見つけて碑を建て祠を立てた。高才の者たちは骨の髄まで恨んでいた。郷紳は分上を語り、彼に八方ふさがりにしてみせ、一時は相親しむように見えたが、後に事が過ぎ人が去れば、やがて奉承もやめ、非を是として語ることもしなくなった。
縫い目はやがて露わになり、汚れた跡は彰らかにならないものはない。名と実はよく副うもので、貪人への誉れがどうして長続きしようか。
だから士紳は彼の醜事を笑いの種として談笑の材料とし、小民は彼の悪跡を歌謡に作って口々に語り伝え、やがて人の耳にも入るようになった。次の大計の時、彼は八九日前から人を遣わして守巡撫按・本府の刑廳に礼を贈り、庇護を頼んだ。ただ本縣の下の知縣だけは、工食をまず取られ、二年分を前もって放たれ、銭糧に火耗を求めて何期もの分を前もって徴収されたことを恨んでいた。遠い年分の徴収済みで未解のものはすべて持ち去られ、各種の予備の無妨分もすべて取り戻され、倉庫の解納すべき銭糧まで取られ、紙の贖で補填されたが補いきれず、半年ただ働きして拭っても足りないほどであった。それゆえに腹を立てた。礼を贈っても受け取り、手紙で照護を求めれば応えると言いながら、用事をした書吏を時々探らせ、日頃の贓私をも暴かせた。大計に際しても公正に事実を出した。離任した人間は目の前にいないから、やはり面目が少ない。彼は日頃人を夹み、打ち、監に入れ、銭を詐り取ったのは、いずれも横行していた。今は一つ「貪」の字だけで上位の人情となった。大察の通例に従い、庶民に落とされた。
家資は山のごとく高く積み、民の怨みも山のごとく積み重なる。一たび黜されて蒼生に謝す、それでも誅殛されぬを恨む声あり。
報せを受けた時、ちょうどまた良い役職を謀り得たところであった。前任の俺なしではいられないとも言えようが、現任の俺なしでもいられないとも言えようが、ただそれは言えて行えぬことで、やむなく荷物をまとめて帰宅するほかなかった。腹立たしいのは、この烏紗帽を持って行けず、この圓領を着ていけず、京官と称して上司に会い郷飲に出るという楽しみも、ただ家の中で鬱々とするほかないことであった。後妻と妾が多く、五人の息子が産まれた。五鳳と称し、長を鳳咮、次を鳳翼、三を鳳趾、四を鳳翎、末を鳳毛と名づけた。彼はまた自ら慰めて言った。「俺には五人の息子がいる。亀のようなものもいれば、官や吏のようなものもいる。今は一人に二三万両ずつ分けてやって、それぞれに大きな屋敷を建てさせ、前には庭、後ろには池を作らせよう。俺は歌童や清客を連れて、五日に一度ずつ順に回って、それぞれに供応させれば、余生を楽しむのに十分だ。陸賈のような暮らしができる。」親しい友人の中に言う者があった。「あなたはゆっくり楽しんでいいお方ですよ。ただ五人の賢息子たちは、名師良友を招いて心を落ち着けて読書させ、科挙で上第を目指させるべきではないでしょうか。」妾たちの中にも勧める者があった。
堂上には朱紫の服が輝いても、膝の前にはまだ布衣の子がいる。よいことを焚いて刺激し、万里で鵬鳥の如く試みに飛ばせよ。
彼は仰向けになって大笑して言った。「何が読書だ、何が読書だ!銀さえあれば、俺の銀で三百両で秀才が買え、四百で監生、三千で举人、一万で進士だ。今どこの考官が秀才を売らず、分上を聞かぬ者があろうか。監生は直接銭を納めるのが通例だ。郷試の大主考は売り、房考に用いられる内簾は巡按で、この分上も五百は要る。外・内簾が確定するのは方伯で、恥知らずなやつは千金を索る。举人を売るのを公道の如くやっている。後で外の噂が酷くなれば、御史が房官を交替させるが、二人は勝手に入れ替わってしまい、売らない者などいない、銭さえあればいいのだ。最初に三千を使い、また一万を使って出身を得る。軟らかい膝で人に跪いて媚を売り、厚かましい顔で人を打ち罵り、そうすれば銭を手に入れることができる。上の者には気前よくして、分を上位に分けてやれば、自然に構わずにいてくれる。下の者には気前よくして、少し下役に残してやれば、自然に俺のところへ探してもってくる。
幸路を開いて、名場に飛び込む。今の世に、銭さえあればよい。
「その時になれば、一本十来倍の利になる。家に持ち帰って田を買い産を置き妾を養い、半生を楽しむ。それが孝行息子というものだ、読書など何の役に立つ!もし二言の書と一本の筆に頼っていれば、老いて白髪になるまで埋もれたまま保証する。古来才のある者は必ずひどく貧しく、清官は必ず後継ぎがいない。何のために読書し清官になどなるのか!」家の中ではまだ名声を保とうとして、一人に経学の先生、一人に郷学の先生を置いた。経学の先生は館にいるが、弟子は嫖賭の場にいた。郷学の先生は館にいるが、弟子は乳母の部屋にいた。年長の者は年が少し上であるから、自分が京官の時に、半分銀子、半分分上で、学に入れることもできた。科挙の時、正考の者は優劣があれば引っかかることを恐れて取らず、選外にされても受け入れなかった。大収になって、一人につき八十金を使い、房考に取り入り、題目と関節を買った。息子が本物の作文ができないと知りつつ、擬制題を探して先生に直させ、息子に暗記させ、当たりが出ることを期待した。
長男は要領が良く、自分で覚えられないことも分かっており、当たりも難しいと踏んでいた。自前で六七両の銀子を工夫して、供給所へ行って場に入った。入門口に入ると、自然に人が迎え入れてくれた。奥に入って一日と二晩しっかり横になり、粥も飯も粉湯もあれば、題目の紙も饅頭も果子餅もあった。监軍に随従されながら、三場を何とかやり遂げた。次男は勘が鈍く、三門に入ったものの、番号が落ちてしまった。文章を書き記して題目を待つうちに、題が合わなかった。彼は題目が間違いで、文章は正しいと言い張り、二篇ほど書いた。後に覚えたものも忘れてしまい、もう書けなくなって、廊の壁に先に名前を出されてしまう羽目になった。その房考は中で頭を悩ませ、他の房を探してもどこにも見つからなかった。鴻鳥が冥冥の中に飛べば、弋射する者はどこに当てようか。場の後、買主は関節が効かなかったと言い、売主は失敗したと言った。一人は硃墨の卷が見つからないと言い、一人は明らかに掲示されており失敗とは言えないと言った。言い訳はできたが、四五千金を費やした。
剥ぎ取って脂膏を集め、浪に科名を覬覦した。もとより空の中より来たり、自ずと巧みなところへ去る。
結局、長男は要領が良く言った。「父上は元々俺に読書させなかった。三千で举人、一万で進士とおっしゃっていた。今それができないなら、手軽なものを選んでやってみましょう。千七百で中書を弄くりましょうか。」呂主事は言った。「それは迷いのない商売だ。やはり举人の方が、元手は多いが後で知縣や通判が取れて、得るものが大きい。」長男は言った。「それはいけません。次の科まで待つなら、また歲考に耐えなければなりません。また銀子を費やし、俺も苦労する。中書が費用が多いというなら、四百両を納めて儒士になり、簡較を弄くれば有司になれる。銭があれば中書の方が、まだ体裁も立つ。もし言うことを聞かないで举人を買おうとするなら、試験の日に行かなければいいだけだ、あなたが銀子を折れば良い。」言い張り通せず、やむなく中書を納めた。喜んで面目を改め、縉紳の中を歩けるようになった。
次男は相変わらず科挙に挑んだ。できないと心配して、二百両を使い、書吏の番号を買い、七人の同号にした。篇ごとに百金、中たれば更に謝礼とした。さらに銭を使って謄録書手に入念に謄書させ、銭を使って関節の房官の房内に割り当てさせた。ところが運悪く、偽の関節を持ってきた者に数十両を持ち去られてしまった。場では中たらず、すでに千金以上を費やした。呂主事は大いに怒り、廃物と言うようになった。次男はそれで手を引けるのを喜んでいた。帳簿の計算は巧みだったから、独り放債経営に出て行った。
侯爵には自ずと骨があり、田舎者もなれることがある。いっそのこと筆の道に仕え、没落の悲しみをまた加えるより。
幸い三男は、寵愛の妾が産んだ子で、幼い頃から聡明で秀雅な顔立ちをしていた。彼は自ら読書の苦労を強いることを良しとしなかったが、妾の方が懸命に書を読ませ、先生を厚く供して文字を作らせた。十四五歳になると、二言ほど文章も書けるようになり、先生は口を極めて大才大物と称した。文字を一篇引っ掻けて、銭を少し工夫して、早々と学に入れた。彼は才を頼みに大物気取りになり、刻んだ文章が値打ちに見えないと思えば非難し、先輩を見れば腐った時代遅れと言った。季考や堂考では、自分こそ魁解の才だと確信して、当然前列に並ぶべしと思い、人の力は要らないと決め込んでいた。父母は胸をなでおろし、そっと取り次いで前列に入れた。するとますます増長して、先生の下を離れ、ただ詩社に入り浸るようになった。この社の旧弊はただ互いに称え合うことだった。深く考える者は、明かに彼の傲慢さを非難しながら、却って持ち上げてご機嫌を取った。本人はまた本当にそうだと信じ込み、二篇ほど大言壮語の文章を刷って名刺代わりとし、厚い礼物を持って某老先生、某老名公のところへ序文をもらいに行った。毎日、衣の上に披巾を付け玉の帯締めをし、大きな駕籠に高い傘を差し出して、絹の包みを持った俊僕を連れてぞろぞろと客回りし、礼物を贈ったり酒宴を請いたりした。名士との交際はみな厚く出て薄く帰り、無理に親しく見せるばかりであった。
交わりを結ぶには黄金が要り、金が尽きれば名が起きる。まだ心配なのは軽薄な者どもが、俺を玩具として扱うことだ。
家の者は彼の交遊が多く、大言壮語も絶えないのを見て才があると思い込んだ。本試で優劣をつけられれば、当然面目を失う。彼はただ目の節穴の主司を大罵りして、少しも恥じることがなかった。家ではかわりに廩生を買おうとしたが、彼は言った。「中れば廩など何のためになる!俺の才では、到底太鼓を打ち破るような運命にはなるまい。」父は信用せず、百金を使って科挙の第二位を弄くってやった。彼はこれは当然の自分の分だと言い、かえって父が無駄に銀子を使ったと陰口を叩いた。
一片の狂奴の態度に、その中に才があるかは定かでない。大言して人を怖れず、顔の甲は十重もの厚さ。
場に入ろうとする時、彼は言った。「兄二人は毎度数千の銀子を無駄にした。俺は举人を買ってくれと頼まない、ただ数千を場入りの嫖費として渡してくれ。」父は千金を与え、さらに自ら省まで随行した。官製の圓領は品が悪いと、自製の二套を備えた。また多くの絹、犀玉の杯、銀製の器玩などを持ち込み、座師への贈り物とし、数百の銀子を自由に使えるようにした。省に着いて第一場が終わると、父に向かって言った。「間違いなく解元を一つ持って帰ってやる。」三場を何とか無事に終えると、清客陪堂を連れ、孌童や美妓を集めて遊び回った。発表の夜、呂主事と数人の陪堂は夜通し飲んで門を開け放して報せを待った。彼も妓家で夜通し待った。彼の家が科挙で小細工をしていることを知る者は先を争って報告に来た。彼を恨む者は、わざと報告の名目で窓の器物を打ち砕きにやって来た。榜が掲示されると、その名前はどこにもなかった。
富貴にも命あり、功名もまた才による。君の家は固より劣れど、あに容易に金台に上れようか。
妓家の中で主試を罵りまくった。父が帰るよう勧めても帰らず、言った。「故郷に帰る顔がない、ただ銀子さえ残してくれれば、しばらく外で憂さを晴らす。」呂主事はやむなく持ってきた銀子をすべて渡した。彼は外で名妓を求め、賭場に落ちた。銀子が尽きると、票を書いて借金した。九折五分の利子も構わず、手に入れた傍から使い果たした。呂主事と妾は相談して、急いで彼を成婚させ、引き留めようとした。しかし習い性となったことはもはや引き留めることができなかった。
四男は、呂主事が官であった時に産まれた子で、銀子は易く手に入るのを見慣れ、驕侈に慣れ染みて、読書では少しも成就せず、ただ揺れて見せることだけ学んだ。毎日の食事はただ豊かなことだけを求め、銭など考えもしない。衣服はただ新しいことだけを求め、値段など顧みない。父は前の三人の息子がいずれも成功できないのを見て、この子には読書させようと思った。彼は言った。「三人の兄たちは誰も読書していないのに、なぜ俺だけ読書しなければならないのか。」特別に先生を招いて供給し、読書させようとしたが、来ることもなく、かえって先生を遊山や飲み食いに引っ張り回した。先生も良心があり、館の報酬を無駄にもらっていることが心苦しかった。講書や作文に招くと、言い返して言った。「俺の家の飯を食い、束脩を受け取れば十分だ、しつこく人を追い立てて何になる?」父が功課を検めに来ると、先生は誤魔化しきれず、「令息は堂堂たる人物で、ただ外見だけを習って、書にはあまり留心しないようです」と言うほかなかった。彼はそれを知ると、先生への供給を断って二日間飢えさせた。先生もついに辞めて帰った。
醴酒はすでに供されず、穆生はどこに留まれようか。惜しむのはこの学ばぬ子、衣服を纏うた馬や牛のよう。
彼の癖は部屋や家具調度の上にあった。毎日工事を起こし、広間を建て楼を造り、池を掘って山を作った。しばらくすると、高台と小さなあずまや、曲がった小径と奥まった道が整ってきた。気に入らないところが一つあると、また取り壊して造り直し、落ち着く日がなかった。しかも広間や楼ができると、広間や楼のための飾りが要り、書房には書房の飾りが要り、庭亭には庭亭の飾りが要った。卓、椅子、屏風は大小高低に合わせて各所に揃え、金漆や黒漆、湘竹や大理石もそれぞれの色に揃えた。さらに書画や古玩器、花壺や鼎炉、盆景や花竹に至るまで、人にいくらでも引っかけられながら、風流文雅な公子を気取った。初めは呂主事も庭亭や池を老後の楽しみのためと思い、指図して手伝っていたが、銀子を使う様子を見てだんだん心が痛くなった。もう手を引かせようとしても、すでに止まらなかった。元来食べることが好きで、自分では食べず、客をもてなすのを好んだ。とはいえ正客でなく、狎客の類で、毎日烹飪が続いた。さらに歌妓を選んで芸を披露させ、梨園の衣装を整えるまでになった。席で見ていて目が熱くなり、自分も出てやろうと思うようになった。ところが体が小柄で顔もいかにも。旦を演じても丑を演じても、生では風雅が出ず、外では威厳が足りず、净では風格が出ず、丑だけはいくらか合っていた。しかも丑には大きな出し物がなく、彼の喉もそれくらいなら何とかなった。五七日かけてしっかり覚え込み、一二の場面を覚えた。弋陽腔の「駐雲飛」は歌いやすく聞きやすいので、彼は招商店の酒保に扮し、陪堂たちが添えた。幸いこの顔つきは、扮装しなくても丑そのもので、跪いたり立ったりもそれらしく、この一場は彼の生涯の自慢の出し物となった。家で芝居をするたびに、この一出は必ず彼が出るとしていた。
ある日、ちょうどそちらでこの醜態を演じていると、折よく父が来て、遠くから見てひどく怒り、舞台に上がって大罵りした。彼は慌てることも慌てず、この花面をぼんやり見つめながら言った。「老爺がおっしゃっていたのは、軟らかい膝で人に跪き人に媚びること。今日は試しに演じてみているのです。あなた方官職をする者は、堂上での顔つきは俺より花々しく、裏では膝が俺より軟らかいのではないですか。場に臨んで芝居を演じるのに、何を本当のことにすることがありましょう。」呂主事は顔色を変えて打とうとしたが、彼はさっと走り去ってしまった。
頑張った妻と劣った息子、手の施しようがない。悔やまれるのは以前の訓育が足りなかったこと。この有様、もはやこのようになってしまった。
五男は、生まれつき白痴で何も分からず、梨や棗を求めること以外には聡明さを見せなかった。読んで覚えることはただ「百家姓」だけで、一句を一日かかって読んだ。大きくなると、真に驢馬のごとく鈍く、世間の事情を少しも分からない。人前では一言も言葉が出ない。人に礼をする時は、下男に指示してもらわなければならなかった。人と酒を飲んで令遊びをすると、ただ罰を飲むばかりであった。それなのに極めて風流で美しい妻を娶ることになり、読み書きも算盤もでき、詩も書けた。この動かしようのない泥塊のような夫に巡り合って甚だ気鬱であった。しかも愚鈍で俗気が人を包み、口を開けば聞き苦しく、動けばまた腹が立つ。枕席の間でも一分の情趣もなかった。初めのうちは鬱鬱と悶々として、ただ恨むばかりであった。後になってこの呆れ者は騙せる、押さえ込めると分かってきた。この呆れ者は酒が好きで、時々酩酊させて人事不省にしてやった。また好色で、下女や小間使いの男にちょっかいを出した。意図的に二人の下女と小間使いを彼に与えておき、自分は別に情事を楽しんだ。家主が愚鈍では家のことを取り仕切ることができず、すべて内人に頼ることになったが、内人には自分の隠れた病があり、威令を行うことも難しかった。田産の小作料は奴僕に任せ、ただ日々減っていくばかりであった。
貪婪がいつまでも続くなど、世にこのような天理はない。不肖の者に賢子がいないなど、世にこのような人の道理もない。
五七年と経たぬうちに、中書になった者は、京の中で父の教えに従い、ただひたすら人に阿諛して、銭を持って人に取り入ることばかりしていた。本府で分子取りの頭となり、内部では知単を出し、酒宴を管め、表装を管め、下程を送り、祝儀を送り、餞別を送り。自分の分子はどこへ逃がすことができよう?ただ日々縉紳の中で酒を食い揖をし、さらに史館の事務に鑚り込んで、実録の纂修もすべて銀子でやらせた。家産も半分が費えた。欽差に乗じて箔をつけようと江西へ差し遣わされることになったが、九江まで行ったところで、風が荒れて舟が破れ、水中に死んだ。
風急にして長江、白昼に昏く、波狂いて布帆の残る影もなし。
鯨に乗って一去、悲しんで返らず、久しく滞りたる魂の報に下る。
次男は父のこの言葉を聞いて、銭さえあればよいと思い、食わず着ず使わず。家人を駆り立てて田荘を経営させ、少しの小作料の滞りも一刻も容赦しなかった。また悪い家人を何人か使って、荘のあちこちに籍のない者たちを収容し、元手のない商売をさせた。次公子もわずかの小銭に目がくらんで、彼らから月々の銭を取って目をつぶった。事が発覚すると、家人は物証が出ることを恐れ、すべて主家に預けた。次公子はまだ、この庶民に落とされた主事にも声望がある、事を隠せると思っていた。結局収めてしまった。これで脱することができると思ったが、穴の中に入れたものはすべて俺のものになると思っていたのに、役所で一打ちされて一吐きされると、彼の家に供述が及んだ。知縣はちょうど儀真で科挙を取り上げられた秀才で、ただ法に照らして処罰した。窩主として、次公子はもはや監の門を出られなくなった。
盗を冠裳を托して行い、囊がいっぱいになれば憂いがないと思う。盗は奪うことを頼みとして、罪科を逃れることなどできようか。
呂主事は郷紳といえど、庶民に落とされた身では役所に出向くことができなかった。銭を出して人に頼んだが、縣尊を動かすことはできず、この息子は生きながら死んだも同然となった。三男は博打に溺れて抜け出せなかった。嫖はまだ良いとして、一日で二数使えば差はたかが知れている。賭事となると、劉毅の一擲百万は、瞬く間に家を破るほどのことだ。彼が賭事に夢中になると、銭がなくなれば田産を差し出した。一注何畝、一注何間と、ついに全部失った。さらにこちらに精力を費やしたため、書はとうに読まなくなり、歳考でとうとう退学させられた。呂主事は読書を好まなかったから、読書する子弟でさえ、読書しなくなってしまった。
朱弦はひさしく弾かれず、指は荊棘の中にあるように鈍った。学問は日々新たにしなければ、一たびの黜を免れることができようか。
四公子は、園池亭樹はすでに整えたが、ただ箱の中が日々空になっていった。古玩器物が日々増え、手が干上がっていった。この奴の顔下僕の膝を学んだが、官にもならず使いようがない。幸い、門前の清客たちは、見込みがなければ寄り付かなくなり、ねだる人が少なくなった。ただ家を見る者が飯を食えず、古玩を見る者が好き勝手できなくなった様子でもあった。
土木に災いなどとは誰が言おう、これはまた一身の災いだ。膝を容れる場所があれば十分なのに、高くそびえて何の役に立とう。
五公子は、生まれつき愚鈍で読書も家の経営も分からず、琴を弾き碁を打って山河を遊び歩いて白昼を過ごすことも知らなかった。妻は自由に活動し、彼を一方向に解き放した。酒は口から離れず、色は身から離れず。人の体もしょせん金石の形骸、消耗して壊れるに至り、ついに弱症を得て身罷り、若くして子もなかった。
蟹を持って暗に身を蔵し、翠に倚って年の光を楽しむ。血肉などどれほどのものか、日々双斧に刻まれて傷つく。
その昔、呂主事は多くの百姓や商人の膏血を吸い上げることを頼みとして、家には五人の息子がいた。まさに官のない身は一身軽く、息子があれば万事足りると思っていた。しかし自ら財を貪り民を搾取し、廉恥もなく、悪い手本を見せておいて、また子どもに読書も習い事も教えなかった。黄山谷が言った。「士人が三日間書を読まなければ、顔つきが見苦しくなり、言葉が無味乾燥になる。」思うに、家の子弟が二言ほど書を読めば、道理を明らかにし応対を知り、人前でも俗気がなくなる。若い頃は書をもって身心を引き締めて、無駄な空想や不道徳な行いに向かうことを防ぐ。だから家庭で子を教える第一のことは、子に書を読ませることだ。読書させずにただ鑚営だけを図れば、怠惰の心を増し、身家に禍を招くのは、なおさら許されないことだ。呂主事は自ら良き手本を示さず、子どもにも読書をさせなかったから、かつては銭と息子があるとして陸賈のように五子の間で遊覧しようとした。ところがこの五人の息子はそれぞれ、あるいは身罷り、あるいは家を破った。どこを見ても凄涼の景のみで、どこに楽しみがあろうか。天が何故こうも彼の光景を見捨てるのかと恨んでいたが、それがすべて自分のせいだとは気づかなかった。
徳を積むことも少なく、遠謀もない。人の行いがよくなければ、天を何の咎に帰せようか。
だから古人が言う。「黄金を箱に満たすとも、子どもに一経を教えるに如かず。」貧しくとも自立できるのは、ただ読書して分を守ることだけであり、それで身を立てることができる。富裕な子弟は驕侈に慣れて愚蕩に陥りやすく、ただ読書して道理に従うことだけが、家を守ることができる。銭財を正当な道で得て、子孫を善く教育すれば、順に取って順に守り、長続きする。銭財を不正な道で得て、子孫を善く教育すれば、逆に取って順に守り、それでもまだ失わないでいられる。しかしただひとり自己の貪欲と暴戻を逞しくし、さらに不肖の子孫が相次げば、敗れないものがあったためしがない。