文化小札
1. 唐三彩:
唐三彩とは唐代に盛んに作られた低温鉛釉陶器で、黄・緑・白・褐などの釉色をよく用いる。「三彩」とは決して三色のみを指す言葉ではない。器種には生活用の器皿、人物俑、馬俑、駱駝俑などがあり、なかでも三彩馬は特に代表的なものである。唐代は厚葬の風が盛んで、唐三彩は大量に明器として副葬され、人々が死後の生活に寄せた想像を託すものとなった。
三彩人物俑の顔の部分には、通常釉薬を施さない。釉薬を焼き上げた後で、眉や目、髭髪、唇や頬を描き入れる。これを「開相」と呼び、今日ではしばしば「開臉」とも称される。わずか数筆で人物の神態を描き出さねばならず、職人の腕前が大いに試される工程である。
現在発見されている主要な唐三彩の窯址には、河南鞏県の黄冶窯、陝西銅川の黄堡窯、長安醴泉坊窯、河北内丘の邢窯などがある。
小説の中で張氏兄妹が唐三彩を焼く窯場は、唐代長安城の醴泉坊における考古学的発見をもとに描かれている。醴泉坊は長安城の西部に位置し、考古発掘では唐代の残存する窯址四基、灰坑十個が確認され、唐三彩、素焼き器、型、窯道具など大量の陶製品の破片が出土している。これは、当時長安城内に確かに三彩器を焼く窯場が存在していたことを裏付けるものである。
2. 西市:
唐代長安の西市は醴泉坊からそう遠くない場所にあった。西市は商業が非常に盛んで、内外の商人が集う地でもあり、中央アジアやペルシアなどから来た胡商がここで商いを行い、市中には珍奇な品々が集まっていた。考古発掘では、西市の遺跡から玻璃器など、異域の文化交流に関わる遺物も発見されている。
玻璃はシルクロードを通じて中国にもたらされた重要な物品のひとつであり、唐代においてもなお貴重な器物であった。
3. 越州青磁:
越窯は唐代を代表する青磁の窯系であり、主に現在の浙江省寧波・紹興一帯に分布していた。その青磁釉は温潤な色合いを呈し、唐代の人々はしばしばこれを「玉に類する」「氷に似る」と形容した。陸羽は『茶経』の中で各地の茶碗を品評し、とりわけ「越州上」として越州青磁を最上に推し、その青色が茶湯の美しさを一層引き立てると評している。
4. 五姓七望:
「郡望」とは、中古の士族が家系と門地を示すために用いた郡の名であり、必ずしもその一族が当時実際に居住していた土地を意味するわけではない。唐代に名高い「五姓七望」とは、隴西の李氏、趙郡の李氏、博陵の崔氏、清河の崔氏、范陽の盧氏、滎陽の鄭氏、太原の王氏を指す。李氏と崔氏はそれぞれ二つの望を持つため、「五姓七望」と称された。小説中の盧璟は范陽盧氏の出であり、その母は太原王氏の出で、いずれもこの中に含まれる名門の高門士族である。
五姓七望は門地と婚姻を極めて重んじ、その社会的名声はきわめて高かった。唐の太宗はかつて『氏族志』の編纂を命じ、士族の等級を改めて定めた。唐の高宗の顕慶四年(六五九年)には、朝廷がさらにこのうち十の顕赫な家柄同士の通婚を禁じる令を下し、これは史上「七姓十家」の禁婚と呼ばれる。しかしこの禁令も、実際にはこれら名門同士の婚姻を真に断ち切ることはできなかった。
則天武后の時代には科挙がさらに発展・拡充され、伝統的な名門の出身でない多くの士人が仕官の道を開くこととなり、旧来の門閥の政治的優位も次第に牽制されるようになった。しかしそれでもなお、五姓七望の影響力が消え去ることはなく、その門地と婚姻における名声は、その後も続いていったのである。
5. 漿:
「漿」は中国古代によく見られる飲み物のひとつで、多くは穀物などを発酵させて作られ、わずかに酸味を帯びている。喉の渇きを癒し、暑さをしのぐ効能があり、また庶民が日常的に飲む飲み物でもあった。