第五回 熱血を誓いて世勲国に報い 孤祀を全うして烈婦身を捐つ
これは天が忠貞を恵まれたことではあるが、また人の力によるところも大きい。あの孫氏を見よ。郜夫人が平日より恩誼を結んでいたからこそ、また忠義の心が折に触れて奮い起こされたからこそ、わが身は軍に掠われ、子は漁父のもとに預けられながら、双方それぞれに身の落ち着き先があった。この一事、もう手を放してもよいものを、なにゆえ再び軍中より逃れ出て、また漁家より子を盗み出したのか。なにゆえ浮き木にすがりながら共に沈もうとして、手を放そうとしなかったのか。なにゆえ蓮の実を食らいながら共に飢えて、ひとり生き残ろうとしなかったのか。けだし天道は忠臣に後嗣あらしめ、人の力もって死を捨てて孤児を存せしめること、これもまた花東丘の恩誼がそうさせたのである。さもなければ、ひとりの女、書も読まず、世事も知らず、何が名分であり、何が節義であるかを弁えぬ者が、孤児の存続をかくも重く見て、わが一身をかくも軽んじるであろうか。
恩深くして命の浅きを知り、誼重くして身の軽きを覚ゆ。
孤を存するの誼ならずんば、公孫のみ独り名を擅にせん。
この三節の出来事も、明朝の異事というべきものである。もうひとつ、姚という姓の人物がいた。世職の武官である。その始祖はかつて信国公に従って福建を取り、両広を取り、戦功を重ねた。ゆえに興化衛指揮僉事の職を得たのである。姚は平日より気節あり識見ある人物であった。凡そ世職の者の多くは無頼の徒に等しく、官であることにあぐらをかいて書を読もうとせず、文理を通じようとせず、言葉は卑俗で立ち振る舞いは粗雑、文官から軽んじられることが多い。また、この官職も悪法で成り立っており、弓馬を習わず、職務を修めず、軍の禄を横領し糧食を詐取しても、考察のときにはたかだか笞打ちを受けるばかりで、除職はされずに禄だけは食み続けるありさまで、怠惰に流れやすい仕組みとなっている。しかし姚は書をいくらか読み、弓馬にも通じ、職務に心を用いる人物であった。
丙夜に龍韜を簡み、軽弓にてつねに雕を落とす。雄心は時に楫を撃ち、自ら霍驃姚に許す。
承平の将官は、高い位のものは文人の真似をして詩を詠む。しかし姚は、それは武夫のすることではないと言い、ただ『武経』と『百将伝』を読み、『通鑑』を繙けば十分、詩を賦して賊を退けようというわけでもあるまいと考えた。下の位の者はただ貪り、淫蕩に耽る。しかし姚は軍士をことのほか哀れみ、飲酒を少なくし、欲を慎んだ。妻は武恭人とて、やはり将官の娘であり、性格は温和で柔らかく、妯娌(義姉妹)には姉妹のごとく接し、奴僕には子女のごとく接した。夫婦の間はまことに水魚のごとく、十余年来、双方ひとかけらの不和もなかった。
喁喁たる笑語は窓の紗より出で、筆に春山を染め初月斜めなり。
琴瑟を調べて鳳を求む声協い、賓のごとく漢梁の家に啻ならず。
しかしふたりとも年はすでに三十余になっていた。姚指揮は怖れているわけでもなく、ただ互いに愛し合っているだけで、子嗣のことを持ち出そうとしない。むしろ武恭人のほうから、側室を娶るよう勧めた。姚指揮は言った。「今がどういう時節か、妾を娶るとはなにごとか。今、人はみな太平だと言うが、文官は我ら武職を軽んじ、武職の者どもも自重を知らない。私の管下に兵士が何人いるかも知らず、どの兵士が私の配下かも知らぬ者がいる。ひとり兵が欠けても、一石の糧米があれば補充しようとしない。在職の者は鍛錬を厭い、武器や硝石や火薬まで盗み売る。補充や訓練を言えば、余計なことをするなと責められる。また、利益に目が眩んで害を知らぬ縉紳や富家は、日本へ線、綿、紬、綾を持ち込めば五分の利があると聞いて、磁器や玩物、書籍などを餌に無頼の貧民に元手を出させ、船を造らせ荷を積ませ、海を警備する官兵を圧制して制止させない。私が行けるなら向こうも来られる。これは夷人に道を開くも同然ではないか。ひとたびわが方の船が倭人を乗せてなだれ込めば、内地に変事が生じたとき、どうして防ぎようがあろう。しかも海上の往来が盛んになれば、窮民や奸賊が打ち劫かすことを企て、これが海賊となる。海上はすでに多事となっており、加えて連年の不作で官府の追徴は止まず、民は生きる術がない。内乱も保証の限りではない。内外が互いに呼応し合えば、沿海から内陸に至るまで、静かな日はあるまい。これが武官として枕を高くしていられる時節であろうか。妾を娶るとはとんでもない。」
時事は危うく累積した火のごとく、智人は臥せる薪の上を憂う。閨中の楽に溺れて、海上の塵を忘れんとするか。
武恭人は言った。「なるほど国家の大事、あなたひとりで案じても仕方がない。しかし、あなたは三十にして子がない。まさか祖父から伝わる金帯を、一族の者に残すおつもりですか。」姚指揮は言った。「わたしたちはお互いをよく愛し合っており、年もまだ若い。子がないとはどうして言えよう。妾を娶ると言っても、子を産めるかどうかも分からず、性格がどのようなものかも分からぬ。あなたが生来慈和な性格で、嫉妬しないことは分かっている。しかし相手が分を知らぬ者であれば、それだけで面倒が増える。今わたしとあなたは、夫ひとり妻ひとり、疑いも猜みもなく、のびのびと何と快いことか。もうひとり人が加われば、こちらは厚くして、あちらは薄いのではないかと疑われ、またあちらは疎かにされているのではないかと疑われ、なぜわざわざそのふたつの疑いの間に身を置かなければならぬのか。ゆえに娶らぬのがよい。」
独りなれば争いなく、二人なれば猜疑が生まれる。白頭まで詠み続けるために、争いの種を絶やしておくがよい。
武恭人は言った。「あなたはあなたの話をなさい。私は私のすることをします。」彼女は仲人に申し付けて、あちこちで妾を探させた。そして考えた。人情として美しいものを愛さぬ者はいない。容貌が自分に勝っていなければ、夫はやはり私に執着して相手に向かわないかもしれない。やはり器量のよい者を選ばねばならない。しかし器量がよければ生性が純粋でないことがあり、夫の豪放な気質と合わないこともある。生性をも探らねばならない。ゆえに探せども気に入るものはほとんどなく、自ら赴いて顔かたちを見、また性格を尋ね、さらには命を占い、籤を引いて子を宿せるかどうかを確かめた。それゆえ幾月もかかり、七八十両の銀子を費やして、ようやく一人の妾を見つけた。
冶める色は花のように艶やかで、芳しい心は柳のように柔らかい。若年はまさに二八、その態度は風流に足る。
まだ門に入る前から、武恭人はその者のために侍女を一人用意し、その部屋をきれいに整えさせた。調度品は自分の部屋と変わらぬものを揃えた。むしろ姚指揮のほうが「あまり豪奢にするな、妻妾の分というものがある」と言ったほどである。親戚や友人の家の奥方たちは「今度こそよくなった、最後まであのようであればよいが」と言い合い、また「嫉妬する気があっても体裁を飾って善人に見せかけ、腹の中に毒を隠しているのだ」と言う者もいた。相手が入門してくると、錦衣をまとい、翡翠の簪と金の飾りを包んで来て、まるで天仙のようであった。姚指揮は「あまりに艶やかで、これは尤物だ」と思い、心の中ではすでに喜んでいた。さらに喜んだのは、この女が旧家の出身であったことである。姓を曹、名を瑞貞といった。年は若いが、立ち居振る舞いは端重で、はしゃいだ様子がまったくなかった。人となりは静かで落ち着いており、温和な性格を持っていた。恭人に仕えるに極めて気を配り、恭人も大いに喜んだ。毎晩、姚指揮は妨げになると思って遠慮していたが、恭人自ら灯りを持ってその部屋に送り入れ、まるで子供を扱うようであった。朝には、人に命じて彼女の寝覚めを妨げないようにさせた。曹瑞貞もまた分をよく守り、姚指揮がその部屋で一夜を過ごすと、必ず二夜目はそうはさせず、恭人の部屋に戻らせるよう仕向けた。武恭人は心を配って、曹瑞貞の月の当たる期を知り、必ず指揮を促して胎を宿せるよう取り計らった。瑞貞はまだ幼く、指揮も武骨な武夫のこと、深く情に溺れるときにはいくらか気の緩みがあったが、恭人はいささかも意に介さなかった。家の婢女や使用人の妻が冷やかしたり仲を裂こうとしたりしても、すべて一笑に付した。
胸中の思いは江河のように遠く深く、両耳は金石のように堅く揺るがない。巧みな言葉は管の音のようでも、静かに落ち着けばおのずと消える。
姚指揮の種子丸と曹瑞貞の調経丸とを、常に飲ませていた。半年も経たぬうちに、瑞貞はすでに懐妊した。恭人はたいそう喜び、乳母をあらかじめ探し、産の支度を整えた。臨月になると、喜ばしいことに男の子が生まれた。恭人は言った。「姚氏に今日後嗣ができた!」姚指揮もまた喜びに堪えなかった。
芳しき蘭の夜、夢に入りて、この寧馨の児を生む。行く末には戈を提げ印を持ち、謝氏の芝のごとく輝かん。
恭人は生まれれば満月を待ち、満月になれば百日を待ち、ひと息に大きく育てたいとばかりに思っていた。
ところが、果たして海上に多事が起こった。浙には汪直・徐海、閩には蕭顕、広には曾一卿など、ある者は通番の仲介をし、ある者は海上で大いに略奪し、ある者は窮民を集めて徒党を組み、それぞれが倭夷を引き込んで中国を蹂躙した。沿海には唬船・沙船・哨船があったが、長年の修繕不足で風浪にも耐えられなかった。各地には目兵・伍長・什長がいたが、十人のうち九人は船にいなかった。たとえ要地一か所でも、衛所があり所に千人、総旗二十、小旗百、百戸十人、正千戸・副千戸・鎮撫各一人といて数は多くとも、平日より各自が兵役を他に充て、禄食を詐取し、半数も在伍せず、老いた弱者ばかりで戦うことを知らなかった。一衛に五所を統べ、その上に指揮使一人、同知二人、金事四人、鎮撫一人。官が一人いれば一人は国を食い物にする蠹虫で、何の役にも立たぬ。兵が弱いと言えば、兵を養うとてさらに兵糧を増やして兵を養うが、総哨・備倭もなく、把総・游擊・参将も前のよりましとはいえない。船上では砲や火磚もあり、賊船の影を見れば放つが、接近すると火器と矢は尽き、相手の火器が残って逆に我が船を焼かれる。岸上では山上や岸で喊声を上げて立っているが、賊が一旦上陸すると、兵はみな逃げ去り、将官も抑えることができない。こうして倭子と海賊は、はじめは沿岸で殺略し、次第に官兵の実力を知るにつれ何をも恐れなくなり、ついに内地に押し入り、興化にまで至った。
世界が承平の日、人には守戦の心なし。寇盜の長駆に任せながら、ただ林の如く侈るのみ。
姚指揮は家にあって兵戈が日ごとに起こるのを見て、常に妻に向かって言っていた。「姚氏にはさいわい後嗣ができた。ただ、わが一腔の熱血を注ぐべき地はどこか。」やがて倭寇が来ると、府や県の官は慌てふためき、衛官と共に軍民を徴集して城を分担して守り、文書を以て救援を求めた。そのとき請われた総兵は劉姓の者で、三千の歩兵を率い、城より十五里のところに陣を張った。「救兵来たる」の三文字で倭人を脅かして退かせるつもりであったが、倭はまったく意に介さず、城外での略奪を続けた。男を捕らえて道案内とさせ、女を犯し、幼い子供を槍の穂先に刺して泣き叫ぶさまを楽しみとした。
劫火は村落に遍く、血流れて汚池となる。野に哭声絶えず、民を牧するとは何のためか。
劉総兵は名将ではあったが、倭人の善戦ぶりと伏兵を知っていたため、軽々しく出撃して鋭気を挫くことを避けた。また野外にあって倭人の夜襲を恐れ、糧食は城中からの補給に頼るため、倭人に輸送を断たれることを恐れた。一通の文書を発し、烽火を合図として兵を城中に移動させ、城内から門を開けて迎え入れるよう取り決め、健兵五人を密かに身に忍ばせて城下へ向かわせた。ところが城に近づいたところで倭子に出くわし、多勢に無勢で捕らえられた。陣中で文書を見つけられ、詳細を尋問されたうえ五人は殺された。倭の頭目はそれで城を騙し取る計略を立てた。中国人で日頃から倭の陣中に仕えており、能吏で胆力があり口も立つ者を五人選び、五人の号衣を着せ、姓名を名乗らせ、文書を持たせ、わざと慌てたふうをして城下で叫ばせた。まず文書を吊り上げて確認し、のちに人を吊り上げた。各官は文書を見て、総兵が城に入って共に守るとあるのを聞き、喜ばぬ者はなかった。
孤城は支えきれぬことを恐れ、王師の征伐を待ち望む。禾は旱に渇して今や枯れんとするに、空に雲雨の垂れるごとし。
ただひとり姚指揮だけが言った。「なりません。今、総兵の兵は城外にあり、倭子が城を攻めようとすれば後ろから挟み撃ちにされることを恐れ、劉総兵と戦おうとすれば城から援兵が出て前後から挟まれることを恐れている。今日は互いに相倚る形勢です。もし一方が兵を移せば、賊に恐れるものがなくなる。今日城に入れれば、明日には包囲される。これは賊を引き込むことに他なりません。断じてなりません。」武官の言葉は文官に重視されないものであるし、武官の中でも口が立つ者があれば、互いに形を比べて妬まれる。誰かが言った。「城中は手薄で、まさに兵が来るのを必要としている。もし受け入れを拒んで万一城中に差し障りが出れば、相手に言い訳を与える。あるいは糧食の補給が絶えた場合、誰がその責を負うか。むしろ入城して共に守らせ、荷を共に担うほうがよい。」
兵士は犄角の勢いを重んず、唇歯は寒さに耐えられぬ。共に孤城を守るに、蒼鷹も羽翰を折る。
姚指揮はさらに言った。「客兵が強く主兵が弱ければ、強い客が主を圧して、日が経つにつれ坐食の山も尽きることになります。」衆官はまた言った。「守りさえ保てるなら、多少食い荒らされても騒がれても構わない。」回文を与え、城外で烽火が上がり次第、城上でも烽火を上げて応じ、門を開けることとした。このとき姚指揮も、ただ城への入城は適当でないと言ったのみで、まさか城を騙し取る計略があるとは思っていなかった。次の日の夕、劉総兵のところから誰も戻ってこず、軽々しく動くこともできない。倭の陣中ではすでに計画が整っており、まず中国人を官兵の先頭に偽装させ、倭兵の大隊をその後ろに続け、草を積んで一握の火を放った。城中でそれを見て同じく火を上げると、兵が来たので門を開けた。二三百が入り込んだところで海螺の音が響くと、先頭の官兵に見えた者が刀を抜いて守備の兵を切り倒し、倭兵はすでに押し入っていた。
袖中より蜂蠆を出せば、見る者皆驚かぬはなし。何ぞ杵血の流れを要せん、唾手のうちに名城を崩す。
城中は鼎の沸くがごとく、劉総兵の兵こそが倭兵だと言い、すでに城内に入ったという。姚指揮は城楼の上にあって、甲を纏う間もなく「軍士よ、急いで我に続け、敵に当たれ!」と叫んだが、軍士たちはそれぞれ逃げ下りて家族のもとへ走ってしまった。姚指揮は刀を抜いて先頭に立ち、家丁二人が後から続いた。他に従う者も多くはなかった。道すがら大声で叫んだ。「軍民一致して賊を討て!」火の光に向かって進み、倭兵と正面から出くわした。身を挺して斬り込み、一人二人を斬り倒したが、後続の兵は続かず、ついに倭子に討たれた。
怒気は死してなお烈しく、身は孤りにて力戦も難し。屍を横たえて明聖に報い、熱血は丹心と共にあり。
武恭人は家にいて倭子が城に入ったと聞き、なおも半信半疑のところへ、家人が一人走り込んできて言った。「倭子が城に入り、旦那様が身を挺して斬り合いに赴かれました。」恭人は言った。「あの方はもうお死にになった。彼は命官、私は命婦、共に死にましょう。」するとかえって曹瑞貞が言った。「旦那様はきっと忠節を尽くされます。しかし奥様、今日はなによりも祀りを存えることを主とすべきです。」この一言が恭人の目を覚まさせた。恭人は「そうね、そうね」と言い、急いで銀子と金珠を取り集め、古びた布衣に着替えた。瑞貞は自ら子供を抱いた。家中の家人はみな城壁の上にあり、二人は姚指揮に従って斬り合いに赴いていた。知らせに来た者も、指揮の消息を探ってくれと言われてまた去ってしまった。家人の妻女や侍女たちだけが残り、人の流れに乗って城を逃げ出した。侍女二人はいつの間にかいなくなっていた。城を出て二三里も行かないうちに、共に逃げる難民の群れに混じった。中に物のない貧しい者がいて、わざと「倭子が来た!」と一声叫ぶと、人々がどっと走り出し、乳母と家人の妻が背負っていた衣包を奪い取り、家人の妻も群衆の中に紛れて見失った。
乱離に奸宄が起き、流劫は道途に遍し。かろうじて一身の死を免れ、金珠を顧みる暇もなし。
曹瑞貞は纏足で歩みが遅く、しかも子供を抱えているため、ますます前に進めない。このような時に輿や乗り物を求めても叶うはずがない。恭人は乳母と力を合わせて彼女の手を引いて歩いた。一里も行かぬうちに、前方からまた一群の倭子が人々を追い立ててきたが、殺さず、婦女を掠わず、ただ荷物を奪うだけであった。これは地元の無頼者が倭子のふりをして略奪しているのであり、だから人を掠わず、人を殺さなかったのだ。それと知らぬ者が逃げ惑わぬはずもない。武恭人が持ってきた荷物もこの機に根こそぎ奪われた。人々は逃げ散り、瑞貞と子供と武恭人の三人だけが残された。武恭人は言った。「このありさまでは、どうして先へ進めよう。いっそ城の中に戻って死んで、旦那様と共に逝くほうがよい。」瑞貞は言った。「奥様、婢子も決して命が惜しいわけではありません。しかしこの子こそは旦那様のお血筋、姚氏の存続にかかわるお方です。奥様が平日から婢子を大事にしてくださったのも、この血筋のためでした。今旦那様がお命がけで節を尽くされたとすれば、この子の重さはなおさらです。奥様も婢子も死ねば、この血筋を誰に託すのですか。無理に命をつなぐのも、一時でも生きてその子を守るため、すべては孤児を存えるためです。」
裙釵の女とは思えじ、よく程杵の心を存する。嚶嚶たる哀語の中に、清涙いくたびか衿を濡らす。
ふたりはまた足を引きずって歩き出した。ほどなく喊声が上がり、数人の者が飛び出してきて行く手を遮った。官兵であった。荷物もなくとも容色ある二人を見て「よそへ行くことはない、前方には倭子や賊がいる、我ら陣中に来て楽しもうではないか」と言い、ふたりを押し立てて歩かせようとした。曹瑞貞は言った。「あなた方は官兵でしょう、なんと無礼な。この方は姚旦那様の奥様ですぞ。」官兵は言った。「どこの姚旦那奥様かしらぬが、陣中で寝床を共にした女を奥様小姐と呼ばぬ夜はないわ、珍しくもない。さあ来るなら来い、来なければ縛って連れて行くぞ。まだ逆らうか、ここに刀がある、おぬしひとりを斬ることくらいなんでもない。」刀を抜き出した。武恭人は言った。「斬るなら斬りなさい。私は朝廷の命婦、城の中ではもう死を覚悟していた。」官兵はとにかく縛れと言った。すると曹瑞貞がゆっくりと落ち着いた様子で言った。「そんなに急かなくてもよい。この方は夫人で、決して身を汚すことはできません。むしろこの方を行かせてください。私がついて参ります。」衆兵は「何が夫人だ、かまわずそちらを連れて行け」と言い合い、一人が「この方の奥様とやら、むしろ自分から進んでついて来るに違いない、引き止めるほうが苦労かも」と言い、また一人が「こちらの娘は年若で人もよく、口ぶりも柔らかい、こちらを連れて行こう、年増は要らぬ」と言った。
軍中に阿蒙なく、紀律は風のごとく消える。戦いには臆病で略奪だけに精を出す、虎豹のように勇ましいと誇るが。
軍士どもは武恭人を幾度か押し退けながら「行け、行け、このやつめを許してやれ!」と言い、曹瑞貞は「奥様にひとこと言わせてください」と言い、懐中の子供を恭人に手渡して言った。「この血筋をどうぞ奥様にお預けします。奥様、どうか急いでください。私はけして旦那様を、奥様を裏切って身を辱めません。」そして地に伏して恭人に向けて一拝し、さらに言った。「奥様、急いでください。共に死んでも益はない。この子には看護する人がいなくなります。」恭人はすでに彼女の意を了解していた。双方が幾滴かの涙を流し、恭人は一歩ごとに振り返りながら去って行った。
この別れ、生き別れではあらず、恐らくは死の訣別となるのだ。涙を草間に洒ぎて、その一点一点はみな血なり。
瑞貞はわざと坐り込んで「疲れた、少し休もう」と言った。兵士たちは彼女の若く美しいことを愛し惜しんで、しばし休ませてせかすことをしなかった。ずいぶん時間が経つと、恭人はもう三五里遠くへ行っているはずで、どの道を行ったかも分からず、もう追えまいと思われた。兵士たちは立ったり坐ったりして随分待った。ひとりが「行くぞ」と言って瑞貞を促した。瑞貞は言った。「どこへ行けというのか。」衆兵は「我らの陣地へ来い」と言った。瑞貞は言った。「行かない。死ぬなら、ここで死ぬ。」衆兵は「自分でそう言ったのだ、あいつを行かせて自分はついて来ると。今更翻すのか、命は遊びではないぞ!」と言った。瑞貞は言った。「命が惜しいと思うか。三人が共に死ぬのを望まなかっただけのこと。今、私が死ぬのに心残りはない。」ひとりが進み出て「訳の分からぬことを言うな、さあ行け!」と言った。すると瑞貞は双眉を吊り上げ目を怒らせて言った。「朝廷があなた方を養うのは、朝廷のために城池を守り、百姓を救うためだ。今や城池は失われ、救うこともできずにおきながら、それどころかここで百姓を掠奪するとは、王法はどこへ行ったのか。私はここで死ぬ。断じてあなた方に従わない!」衆兵は宥めたりすかしたりして「そんな道学先生のようなことを言っても誰も聞かぬ。行くのは決まりだ」と言い、引き寄せようとした。瑞貞は死を決して言い放った。「奴輩め!命官の妾が、お前たち奴輩についていくと思うか!」
節に殉ずるは我が分、狂人よ妄りに図るな。この一腔の血を洒いで、碧に化して長途に濺がん。
この兵士どもは彼女の美しさに惹かれて脅しをかけているだけで、殺そうという気など最初からなかった。しかし彼女の口から果てしなく「賊め、賊め」と罵りが続くのには堪えかねた。放してもやれず、老いた者もそうはできず、半日を無駄に過ごした。そのうちひとりが凶暴な心を発し、頭上からひと刀。哀れ、瑞貞は賊を罵りながら死んだ。
玉のような骨は汚れを受けず、むしろ秦の柱に砕けるを選ぶ。身は砕けても名は完く、千秋にわたって美しさは余りある。
武恭人は自ら子を抱いて、どちらへ向かえばよいか分からず、倭子もなく兵もいない方向へ人に道を尋ねながら歩いた。人に騙されることを恐れて、老人や老婆、あるいは小さな子供に尋ね、公公や婆婆にも数えきれぬほど語りかけた。子はまだ生後一年にならず、乳を失って泣き声を上げ続けた。身に帯びた金珠を人の家の老婆や子供に差し出して飯を少し分けてもらい、自分で噛み砕いて子に与えた。また道中のために少し取っておいた。道中には次々と人の話が聞こえてきた。兵も倭子も知らぬ女が殺されたと。美しい女で、足は小さく、上は何を着て下は何を着ていたと。恭人はそれが瑞貞だと分かった。目に涙をあふれさせて「もうよい。あなたは真に私たち夫婦を裏切らなかった。あなたこそ潔く逝ったが、ただ身を捨てて私を救い、この子を私に残して、私は死ぬことができなくなった。仕方がない、瑞貞が言った通り、一時でも生きて守り続けよう。」子を抱え切れなくなると背中に括りつけて歩いた。荷物もなく、子を背負って乞食同然のありさまとなった。そのため道中、誰も振り返って見向きもしなかった。
襤褸を纏いて共に行き乞い、嗟嗟たり、道に迷いし人。風霜に緑の鬢は枯れ、もはや昔日の精神はない。
東へ西へとさまよって幾日かを過ごした。天は人を見捨てなかった。ふとある村に迷い込むと、竹の家の中に一人の女がいて、家人の姚鯨の妻に似ていた。近寄ろうとすると、その女がすでに飛び出してきて「これは奥様ではありませんか!」と言った。双方は向き合って痛く泣いた。
貧賤には一身が軽く、どこへ行っても貧賤のまま。富貴は今いかになったか、相見ては涙が糸のように流れる。
姚鯨の妻は言った。「奥様とお坊ちゃんがご無事で、まあ嬉しいこと。旦那様は真にご戦死なさいました。」武恭人はそれを聞くとまた夫のために泣き始めた。指揮が奮戦して死んだであろうことは恭人も料っており、半信半疑のところに確かな知らせが届いたのだから、泣かずにはいられなかった。どこでその知らせを得たかを尋ねると、「姚鯨が帰ってきたとき、奥様に旦那様の消息を探ってくれと言われ、行きましたが、すでに旦那様はお亡くなりになっておいでした。姚鯢と姚豹は旦那様をお助けしようとして重傷を負って亡くなりました。戻ってお報せしようとしたときには、奥様はもうお出になっていました。道すがら追いかけて、ちょうど私に会ったのです。旦那様を改葬しに行くと言ってました。」また尋ねた。「お坊ちゃんはこちらにいますね、では若奥様は?」「道中で兵の略奪に遭い、陣中に連れて行こうとされました。私は死んでも従わないと誓いました。形勢が悪いと見て、子供を私に渡し、自分が一緒に行くと言って私を解放させてくれました。その後、ひとりの婦人が賊を罵って殺されたと聞きました。年格好や着物が若奥様に似ており、おそらくお亡くなりになったかと。」姚鯨の妻は小さな主人を抱き受けた。「まだこの金帯が残っておりました。」話している最中に一人の女が出てきた。姚鯨の妻の母親で、中に入るよう誘ってくれた。
昔は華やかな屋敷に来たものを、今日は茅葺きの軒を借りる。滄桑の恨みが込み上げ、愁眉は両端に蹙まれる。
その家には人数も少なく、六七十の老人がひとり、別棟に住んでいた。姚恭人は姚鯨の妻に野菜を摘ませ、村酒を一壺求め、指揮と曹瑞貞のために祭奠を設けた。幸い姚鯨の妻は草莽の中にあっても主従の礼を忘れなかった。さらに幾日かして姚鯨が来た。妻に会って言った。「道すがら奥様を探しましたが見つからず、かえって若奥様のお骸に出会いました。兵に掠われようとされて従わず、罵り倒して殺されたと聞きました。附近の人たちとともに草葬にしてまいりました。城中の倭子はすでに退きました。旦那様は署の官が殯殮を整えてくださっています。こちらへ来て一緒に帰ろうと思っていたところ、奥様もこちらにいらして、お坊ちゃんもいると聞き、これは姚家の幸いです。」
大樹の将軍は倒れても、なお萌芽の育つを見る。宗廟に属する者あるを喜び、天は忠貞を見捨てず。
中に入って奥様に叩頭した。翌朝早く支度をして帰途についた。曹瑞貞の墓の前を通る道すがら、また一場の痛哭となった。彼女は死を捨てて主を全うし、さらに身を捨てて節を全うしたと言い合った。家に帰ると、幸い家屋は残っており、家財道具は十分の一か二が残っていた。武恭人はまた姚指揮の霊前で指揮のために哭し、帰宅して非常な悲しみに暮れた。
蜘蛛の巣が軒を封じ四壁は空に、うつろな窓辺に静かに悲風が起つ。
閑な階には終日人の跡絶え、雨風が連日続き短蓬が茂る。
姚恭人は逃げるとき、慌ただしく身に数百金と金珠宝石を隠し持っていた。兵に遭ったときは奪って陣中に連れ行こうとするばかりで、身体を改めなかった。道中でも使わずにいたので、持ち帰ることができた。荒廃した城市の中で誰が金宝を求めようか。姚鯨を別の府県に遣わして銀子に換えさせ、曹瑞貞のために改めて棺に収め、姚指揮の棺木とともに祖先の墓地に移して合葬した。また姚鯨に命じて、姚指揮の拒戦死忠の詳細、姚貌と姚豹が主のために殉じた次第、曹瑞貞が節のために死んだ事情を府と県に申し上げて上申をお願いした。孝子順孫、義夫節婦のことは、数両の銀子で朦朧とした虚偽のものも作れるが、忠死節死は偽ることも隠すこともできない。まことに一人の将官が戦場で死に、まことに一人の女が道上で殺された。これはなぜか。姚指揮のことは言うまでもない。曹瑞貞については、県官が劉総兵の面目に差し障ると思い、里に送って「倭に出会って賊を罵り、屈せずして死んだ」と申請した。兵と倭とはもとより一線の差もなく、結局調べれば同じことになる。撫按が連名で上疏し、部では論議して、姚指揮は指揮使に追昇し、祠を建てて春秋に祭祀を行い、さらに一階を荫蔭した。曹瑞貞は碑坊を建てて旌表し、孺人を贈り、祭祀に陪祀とした。聖旨もすべてを允行した。姚指揮の子は優先して養育され、武恭人は心を尽くして育て上げ、長じて師に就いて学問に励み、十六歳になって京に上って指揮同知に荫蔭された。武恭人が指揮のために妾を求め、後に苦難の中で子を背負ったこの一段の光景は、ここに至ってようやく終わりを告げた。小指揮は安否を問い食膳に侍り、意を承けて喜ばせることに至らぬことがなかった。武恭人は八十の寿をもって終わった。
中心は淡くして求めるところなく、猜疑も憂慮も乱さず。福と寿と康寧を備えるのは、まことに徳の高い人への報いなり。
この一節の出来事で、姚指揮の事跡は花将軍と並び称するに足りる。もし城を落としたことを責めるなら、花将軍も太平を守ったとは言えない。孤児を存えたのは孫氏の場合には郜夫人がしたことと同じで、それは武恭人がしたのであり、艱苦は変わらず、また嫉妬しない点では恭人がまさる。郜夫人の事は曹瑞貞がしたことで、死に方は同じである。瑞貞はさらに委曲を尽くして主母を全うした。この二つの出来事はいずれも明朝の大奇事であり、いずれも千古の法となるに足りて輝かしい。もし恭人に嫉妬の心があり、早くに妾を置かなければ、姚氏の嗣は絶えた。もし乱離の中で子を背負い乳を与えなければ、姚氏の嗣もまた絶えていた。それゆえ恭人はとりわけ手本とすべき人である。「嫉妬せず」のひと言、その造る福はまことに尽きることがない。