酔醒石(すいせいせき)

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第一回 窮途を救いて名は官に顕れ 冤獄を申して慶は奕世に流る

《画堂春》:

古より善を行えば天これを知る、況んや理を正し危を扶くるをや。人と神と相い敬いて依り、逸楽は期を知らず。書を積むも必ずしも読まれず、金を積むも必ずしも肥えぬ;徳を積み孫枝に及ぼすに如かず、富貴は何ぞ疑わんや。

『易傳』に曰く、「善を積む家には必ず余慶あり;不善を積む家には必ず余殃あり」と。この言葉の意するところは、禍福はただ人の自ら招くものにして、天に私の厚薄あるにあらずということだ。されど善を積むに陰徳より大なるものなく、不善を積むに陰謀より大なるものもない。ゆえに陰徳の慶は最も長く、陰毒の報いは最も苛烈である。刑獄の一事にいたっては、その関わるところ尤も重い。心に平恕を存すれば、死すべき者も生かすことができ;刻薄な心を用いれば、生きる者もたちまち死ぬ。いわんや賄賂を受けて法を曲げ、故意に人を陥れることにおいてをや。人命は至重なり、いかでか我が喜怒の供とし、我が意のままに蹂躙することができようか。古語に云う、「権にあって方便を行わざれば、宝山に入りて空手に帰るが如し」と。士大夫、権を握りながら冤獄を雪ぎ申し、無辜を哀れまずして、上天の好生の心に深く背くにあらずや。漢の時代に、于公という者があった。獄吏となり、法を持すること公平にして、孝婦の冤を明らかにすることができた。かつて自ら門道を高く大きく造らしめて言った、「我が子孫には必ず顕れる者あるべし」と。後に子の定国が果たして廷尉となり、その言の如くなった。唐の時代に、何比乾という者があった。徐有功・来俊臣・侯思止と共に刑官を務めた。比乾は寛恕にして、多くの冤罪を正した。時の人はこう言い伝えた、「来・侯に遇えば必ず死し、徐・何を過ぎれば必ず生きる」と。ある日、老いた婆が門前を過ぎ、九十余本の算木を持ちて比乾に告げた、「君には陰徳あり、子孫の中で公卿郡守となり印綬を帯ぶる者は、この算木の数の如くなるべし」と。後に果たして累世にわたって通顕した。宋の時代に、張慶という者があった。獄官となり、獄舎を掃き清めることを怠らず;囚人に食を与えて飢寒に至らしめず;病ある者には医薬を欠かさなかった。冤枉を申し理めることはできなかったが、それでも子孫は科第に登る報いを得た。周興・吉頸の輩のごときは、罠を仕掛けることを号とし、罪状をでっち上げることを経典とし、平民を陥れ、縉紳に害毒を流した。終には身首分かれ、妻子宗族も共に斬戮を受けた。善人の報いと比べて、いかに異なることか。そこで俚言を綴り、感慨を記す:

丹筆は軽々しく下すべからず、蒼黔は死生にかかわる。

矜恤の意を少しでも忘れれば、たちまち鼎鐺に烹らるるに等しい。

求められるは寛仁の吏、法を奉じて公平を持すること。

桃の穂生えることを望まずして、いかで鬼の泣く庭に堪えようや。

皇帝なお清く問われるに、廷評は情のままに恣にできようか。

墓を掃うは屠伯に近く、甕を索めるは周興に請う。

いかなれば于定国の如く、高門にて世に栄えぬや。

報いと施しは応に違わぬはず、あえて司刑に告ぐ。

以上に述べたことは、なお権が己にあり、出入が心のままになる者が冤を雪ぎ枉を申すことで、それでも難事ではない。今ここに語ろうとするのは、官は卑しく職は小さく、権もなく、銭で名声を買うことも好まぬ者が、よく冤を明らかにし係る囚人を解放した話である。これはいかにも難しいことではないか。

嘉靖年間、姚一祥という人があった。松江の上海県の人である。幼くして父を亡くし、家事もやや裕福で、人となりは倜儻にして不羁、財を軽んじ義を重んじた。かつて科挙の業を学び、詩文を能くした。童生の試を幾度か受けたが、時運に恵まれず、学に入ることができず、郷里の間では嗤笑されることもあったが、彼は安らかにそれを受け入れ、心に留めることもなかった。ただ、その母は寡婦として孤子を育て、一心に彼が功名を以て顕れることを望んでいた。そこで家の積み蓄えを取りまとめ、約四五百金を用意して、彼を南京へ監生として入学させることを命じた。一祥は母命に従い、妻子に別れを告げ、下僕二人を連れて、すぐに旅立った。南京は古くは金陵と称し、また秣陵とも号し、龍の蟠踞し虎の踞く、帝王の一大都会である。東晋の渡江以来、宋・斉・梁・陳、いずれもここに都を建てた。その後また南唐の李璟・李煜が都を建てたゆえ、その壮麗繁華は東南の筆頭となった。王介甫の「金陵懐古」の詞に証拠がある:《桂枝香》:

登臨して目を送れば、まさに故国の晩秋、天気初めて粛し、瀟灑たる澄江は練の如く、翠峰は簇の如し。征帆と去棹は残陽の裡に、西風に背いて酒旗は斜めに矗つ。彩舟は雲淡く、星河は露起ち、画図も足り難し。

念えば昔より豪華競い逐い、恨む門外の楼頭、悲恨は相続く。千古高きに凭り、これに対し、慢に栄辱を嗟く。六朝の旧事は流水に随い、ただ寒烟衰草は緑に凝る。今に至るも商女は、時時尚いまだ歌う、《後庭》の遺曲を。

明朝の太祖皇帝に至って、さらに版図を広め宮殿を建立し、百府千衙、三衢九陌。奇技淫巧の物、衣冠礼楽の流、艶妓嬌童、九流術士、あらゆるものが雲のように集まり鱗のように列なった。真に言い尽くせぬ繁華、楽しみ尽くせぬ快楽であった。北京に遷都して後は免れず宮殿も傾廃したが、しかし山川は昔のままで、景物もかつての如く、他省の郡邑とは自ずから異なっていた。一祥が城中に至り、目を悦ばせ心を楽しませた。心中ひそかに思った、「入学の手続きのために監に詰めれば、心ゆくまで遊び回れない。それより先に宿を探して数日遊んでから処置しよう」と。そこで二人の僕を連れて秦淮河の桃葉渡口へ行き、河に面した一室を借りた。南京の宿泊所として河房は最も高価にして、また最も瀟洒であった。西の方には貢院があり、川向こうには妓楼が向かっていた。ゆえに風流闊達の士は、喜んで余分な銀を出してそこを借りた。一日休息した後、翌日から外に遊び出し、二三日続けて遊んだ後、ふと武功坊を通り過ぎ、橋を渡って妓楼の中へ足を運んだ。見れば:

紅楼は岫の如く聳え、翠館は雲を凌ぐ。曲がる欄干に彫刻の手摺、数多の奇花異卉が植えられ;幽房深い室に、幾種もの宝瑟瑶笙が並ぶ。嫋やかな音色は梁を繞り、芳しき薫りが鼻を打つ。玉の姿花の貌は、人人みな洞府の仙妹;書案と詩筒、人人がまるで文林の学士の如し。明月尽くることを憂えず、もとより不夜の天と名高く;粉の香りが漂い来たり、昔から魂を迷わすの地と称される。風流の手本を演じること尽きず、幾多の年少英才を迷わせる。

一祥は元来娼妓に泊まる意志はなかったが、一度その門に入り、このさまを見れば、やや心動かされるものを覚えた。況んや妓楼の古い言い伝えには、「来ないことを恐れるのみで、来て利口に立ち回れることを恐れない」とある。ゆえに空振りで帰る者はなかった。最も吝嗇な者でも、幾夜か泊まって数十金を費やさなければ出ることができない。さらに一群の取り巻き若者が煽り立て、しゃれた受け答えをしながら熱心にもてなすのだから、どれほど老成した見識があっても、すんなりと出て行くのは難しかった。一祥はまた風流で洒脱、財を惜しまない性質であったから、たちまちのうちに二人の妓女に目を留め、大いに浮かれ騒ぎ始めた。誰が彼にもてなさずにいられようか。数日すると、ついに僕人を呼んで荷物を全て妓楼に運び込んで住み着いてしまった。妓楼では、客の下僕の相手をする下働きの梅香がおり、二人の僕人も快楽にかまけて、本来の用事を忘れ去った。

姚君は名利を争う心を、玉を惜しみ香を憐れむ意に変えてしまった。監生になるための費用はことごとく纏頭花費に消えていった。やがて半分が尽きた。今更入学もかなわぬとなれば、心のままに楽しむにこしたことはない。取り巻き連中が夜昼もなく誘い惑わし、弾奏歌舞、六博投壺に興じるうち、酔い臥す日々となり、財を惜しまず使い続けた。懐の中身は見る見る底をついていった。ある日、取り巻き連中が彼を雨花台の遊覧に招いた。左に美女、右に艶女、前に糸竹の音が満ちて、みかけは熱く媚び奉るようで、実は資糧を根こそぎ絞り取って旅人を路頭に立たせる算段であった。読者よ、この場所がいかに気楽に行けるものでなく、この連中がいかに付き合えるものでないか、お分かりであろうか。姚君はそれと知らず、なお痛飲高歌し、筆を執って詩を題した。詩曰く:

昔日に経を談じし処、今は遊冶の原となれり。

莫愁はかつて艇を繋ぎ、霊運もまた轅を停めたり。

練を分けて澄江の色を成し、青を飛ばして木末の軒を出づ。

古来より佳麗の地なれば、得意にして言を忘れんや。

詩を題し終えると、衆人は一斉に称賛した、「かくも高才なれば、龍門の万丈も恐れるに足らず!」と。人人が酒を持って先祝いをした。大いに盛り上がったその折に、突然一人の人物が、ぼろの頭巾にやぶれた衣を纏い、憔悴の色著しく人の色もなく、茫然とやって来て、姚君に向かって礼をして乞うた。姚君は乞食と思い、取り立てて気にもせず、僕人に命じて酒食を与えた。その人は酒も飲まず、食も食わず、姚君に言った、「某は河南の秀才にて、道中で賊に遭い、財を尽くし身傷つき、帰郷できず、ゆえに旅費の助けを乞うものにて、酒食の類のことではございません」と。二人の取り巻きが口を挟んだ、「姚相公、ああいう人を相手にするな。ここにはそういう輩が大勢おり、みな難に遭ったと偽って人の金をだまし取ろうとしているのです。どうして本当か嘘か見分けがつこうか、秀才かどうかなど調べようもない」と。その人は大いに不満げに言った、「某は賊に遭い、死に瀕したゆえ、異郷に流浪することを恐れ、已むを得ず助けを乞うものです。今既に俗人に疑われ、これ以上この場で乞うことはできません。但し某は偽りを弄する輩ではなく、ただ助けを得られないだけのこと。ゆえに不正の汚名を受けるわけにはいかず、偽りでないことを明らかにしなければなりません」と。遂に衣を脱いで示すと、果たして刀傷はまだ癒えず、血痕が衣に残っていた。一祥はすぐに立ち上がり、手を拱いて詫びた。そして僕人に命じて行箱を持ってこさせ、懐を探ると、白銀十両と、紵の衣一領、紬の袷一枚があるのみであった。すなわちそのすべてを与え、さらに酒を注いで送った。その人は感謝の涙を流して拝謝し、姚の姓名を問うて去った。しかし姚君はその人の名を問わなかった。今の人ならば、わずかな施しをしても恩を誇り徳を見せびらかしたがるが、これほど旅の見知らぬ人にこれだけの物を贈りながら姓名も問わなかった。まことに恩を施して報いを求めず、忘れたも同然にしたということである。この一事だけでも既に及び難いのに、これよりさらに大きなことがあった。姚君はこの時、ふと心中に思いを廻らした、「財布はもう空になった。助けてくれる者もあるまい。このまま居れば、女将にとやかく言われ、みっともないことになる。それよりも早めに別れを告げて帰るのが、まだ馬脚を露わさずに済む」と。かくして酒も飲まず立ち上がり、妓楼に戻って荷物と寝具を取り、すぐに暇を告げた。二人の妓女は必死に引き留め、またもう一夜泊まった。翌朝早く、僕人に命じて船を呼ばせ、急いで旅立った。二人の妓女は泣く泣く、誓いを口にしたが、それはみな銀のためのことであった。銀が尽きたと見るや、やむなく見送り出すことになったのだ。姚君は爽やかな男子ゆえ、二人の女に未練はなく、そのまま船に乗り込んだ。数日ならずして家に着いた。母は息子の帰りを聞いて大いに喜んだ。入学の件について問えば、一祥はしばらく声も出なかったが、やむなく実を告げた。母は大いに怒った。普段は一祥は最も孝行で、母命を恭しく守ってきた。一時の高揚で四五百金を費やしてしまったことは、実のところ本人には大して堪えなかった。ただ母命に背き、娼楼で銭を費やしたことが甚だ恥ずかしく、悔やんでも悔やみきれなかった。それ以後は再び外出を慎んだ。一二年経って、このままではけりがつかないと思い、近くの県の下級吏員の職を買い取り、小さな前途を図ることにした。読者よ、これほど豪爽な人が、役所の塵にまみれた金などを気にかけると思うであろうか。ただひたすら難を助け危を扶け、寛厚に人に接した。役所の中にも彼の忠厚さを称える者もあれば、阿呆と見る者もあった。彼は全く気に留めず、人の言笑に任せるのみであった。月日は流れ、六七年が瞬く間に過ぎ、二度の評価期が満ちて、慣例では京師に赴いて勤務することになった。その折は母命に従い、京にある三年の間、少しの散財もせず、江西九江府知事に選ばれた。任に就いて間もなく、本府の司獄司に欠員が生じ、上司が彼に兼任を命じた。彼は心を込めてその職を処理し、諸囚を助け養い、軽罪で一時的に拘留されている者に対しても苛酷な扱いをしなかった。重罪の囚人の牢にも自ら赴いて、汚れたところを清め、病ある者を治療し、飢え寒える者に衣食を与えた。人人は徳に感謝し、それぞれ恩を感じた。冤罪に陥れられた者や、上司の不公正不明によって拷問で自白を強いられた者については、一一詳しく調べた。言える機会があればその者のために解き明かした。ただ官が卑しく職が小さくて、冤枉と知りながら申し開きができないことを、しばしば心痛く思った。そのため、官舎の中は水の如く清廉で、蔬食に布衣、澹然としていた。かつて小詩一首を壁に題した。詩曰く:

世道は淳古に非ず、人に地を画く風もなし。いかなる時にか刑措を得て、彼の官城の空になるを令めんや。

詩以て志を言う。この詩の意を見れば、邵堯夫が「天に常に好人の生まれることを願い、人に常に好事の行われることを願う」と言ったのと大同小異であり、彼の平日の存心がいかなるものかが分かる。半年が過ぎた頃、新しい按察使が着任した。大小の官員は一人残らず参見に行かねばならない。彼もやむなく列に加わって二度ほど行った。察院の衙門はいかにも尊厳があり、これらの小役人が口を利く余地などあるはずがない。しかし事の体裁上、行かざるを得なかった。三日続けて参見を終えて、衆官みな退出した。一祥もすでに身を翻して去ろうとしたとき、突然内から姚知事を呼ぶ声がかかった。一祥は何事かと思い、やや驚いたが、ひそかに思った、「私はここで官を務める間、少しも不公不法なことをせず、少しも不公不法な銭を取っていない。関係のないことであろうから、入っても構わない」と。そこで急いで入って謁見した。察院が問うた、「あなたが上海の姚一祥か」と。「小官まさにそれでございます」と答えた。また「着任してどのくらいか」と問う。「十ヶ月になります」と答えた。また司獄司を兼任してどのくらいかと問う。「やっと五ヶ月ほどでございます」と答えた。察院がまた言った、「あなたは風流闊達の人、なんでこのような小役人をされているのか」と。一祥はこれを聞いて心中大いに疑い、やむなく強いて答えた、「恐れ入ります」と。察院がまた言った、「某年月日、南京の雨花台で妓を連れて酒を飲んでいたのはあなたではないか」と。一祥はこの二句を聞いて、何の縁故か分からず、心臓がどきどきと跳ね、あわてふためいた。まるで冷水を頭から浴びせられたように、全身が震え止まらなかった。すぐに烏帽子を脱いで、頭を地に打ち付けながら、口々に「死罪、死罪、お慈悲を」と言い続けた。察院は笑って言った、「慌てるな。聞くが、雨花台にいた時、ある秀才が難に遭い落魄して、あなたに助けを求め、あなたが衣服と銀子を与えたことがあったか」と。一祥はこれを聞いてやや落ち着き、すぐに答えた、「ございました」と。察院が言った、「あなたはまだその人を覚えているか」と。「一時の偶然の出会い、別れてから久しく、今はもう思い出せません」と答えた。察院がまた問うた、「その人の姓名を知っていたか」と。また答えた、「小官はたまたま助けただけで、姓名を問いませんでした」と。察院が言った、「それこそ本院がその人である」と。そして言った、「立って礼をせよ」と。すぐに皂隷に命じて門を閉じさせた。一祥はやっと安心し、立ち上がって礼をして、脇に立った。察院の体面上、下位の三司や府経歴・県丞等の官員には茶を出す道理はない;特に引き留めて茶を賜ったとしても、立ったまま飲むだけのことである。ゆえに姚君は察院に旧恩があるとはいえ、やはり立ったまま茶を飲んだ。茶が終わると、察院が言った、「本院は君に助けていただいて帰郷してから、幸いに科挙に及第し、常に恩返しを思ってきたが、機会がなかった。今幸いにここで出会えた。まさに天が機会を与えてくださったのだ。ただ尊卑の差はあまりに大きく、体面の厳しさから、往来して報恩することもできない。君は人を助け物を利する心があり、獄中の事情も詳しくご存知のことと思う。もし真に冤枉の者があれば、何名かを書き出してほしい。千金に値する者であれば、本院が釈放を行い、君への恩返しとしよう」と。一祥は命を受けて、礼を言いながら退出した。衙門の人人は首を伸ばして覗き込み、何の理由で茶を賜ったのかと探っていた。府県間の新聞係はすぐにこの事を両司各道府県各官に報告した。府県の官員の中にも名刺を送ってくる者があり、礼物を送ってくる者もあった。読者よ、これは司獄司を奉承するためと思われようか。実はすべて察院の知己を奉承するためなのだ。姚君が衙門に帰ると、喜びはこの上なく、すぐに衙門の書吏を呼んで、察院の言葉を一々説明した。書吏はみな祝って言った、「恭喜老爷、このたびは大きな一稼ぎができましたね」と。姚君は笑って言った、「お前たちは愚か者だ。もし儂が金目当てにそんなことをするなら、なぜ日頃から索り取ったり稼いだりしないのか。ただ官が卑しく職が小さくて、冤枉を申し開くことができず、常々遺憾に思っていただけのこと。今幸い上の老爷にこのお心遣いがあり、私はまさに風に乗って火を扇ぎ、かねてからの心願を果たしたいのだ。どうして金を得ることで喜べようか。もし金目当てなら、金のない冤枉者は、やはり出られないままだ」と。書吏たちはこれを聞いて、口先では称賛しながら、心では皆こう笑っていた、「金を欲しがらない人などいるものか。これは人前での見せかけの言葉だ。やってみれば分かる」と。そして言った、「老爷が金を要らないとおっしゃるなら、獄中に何人本当の冤枉者がいるとお分かりですか」と。姚君は言った、「私は着任した時から常にこの心がけでいたから、牢の中で七人が真の冤枉だと分かっている」と。七人の名前と事跡を数え上げて、また言った、「お前たちはそれぞれの前後の経緯を詳しく書き記し、文書を作って釈放に向けよ。私は一文も取らぬ。その中に三四人の富家があり、出せる者には一人二十両か三十両ほど言えばよい、それも過ぎた額ではない」と。獄吏はすぐに牢に行って七人にそのことを伝えた。七人は感謝して止まず、すぐに家に人を遣わして知らせ、銀子を集めて書吏に渡した。書吏の一群はまたこう算段した、「本官は銀子は要らないと言うが、本当にそう思っているのか。況んや彼は三四人が富家と分かっており、察院の老爷も一人千金と言っていた。いっそ彼らに二三千銀子を集めさせて文書を送ってもらい、本官が本当に要らなければ、すぐに文書を上に送るであろう;もし建前だけなら、きっと二三日引き延ばすはずで、その時に持ち込めば良い」と。みなで相談が決まり、銀子が揃った。数日後、文書が完成し、書吏が姚君に見せた。文書を取って、すぐに察院に会いに行った。

この時になって書吏たちは初めて彼が真に金を要らないと悟り、人人感嘆して止まなかった。

察院の前に至り、開門を待って中に通された。今回はこれまでの謁見とは体面が違った。一祥が入るや否や、察院はすぐに門を閉じさせた。一祥は文書を呈上して申し上げた、「知事が平日から獄情を体察してきたところ、重罪の囚人の中に七人、真に冤枉の者がおります。老爷の御命令を賜り、あえて勇気を出して呈し申し上げます。老爷の天地の御恩をもって開かれんことを望みます」と。察院は文書を見て言った、「君はいくらかお得になったか」と。答えて、「すでに釈放の日を定め、七人合わせて七千金を謝礼として知事に差し上げることになっております」と。察院が言った、「ならば十分に君の徳に報いることができよう。君はこの銀を持ち帰り、のんびりと林泉の間に逍遙されれば良い。何も五斗米のために腰を折ることはない」と。一祥は命を受けて退出した。察院はすぐに文書を批准し、七人はたちまち出獄した。七家の家族が老人を扶け子供を抱いて、香を焚き叩頭しながら、涙を流して膝行して衙門まで礼を言いに来たことは、言うまでもない。しかし一祥は察院に七千金を得たと言ったが、実際には一文も受け取っていなかった。他の者なら幾らかの銀子を得て冤枉を申せば、それも責められることではない。そうでなくとも、富者から銀を取り、貧者については無条件で申せば、それもすでに賢人君子と言えよう。最上は、銀を取らなくとも上の者に正直に申し出て、真実に冤を雪ぐ意を示すことで、これはなお及び難いことである。しかし今の姚君は銀を得ていないのに、七千金を得たと言った。誰がこのように虚名を引き受け実利を失い、人の冤を雪ぎながら人の財を利せず、己の名声をも求めず、上の者の褒賞を得ようとしないものがいるか。まことに大聖人・大菩薩の心腸と言うべきである。おそらくこのような人は、古今に多くはないであろう。次の日、姚君はすぐに致仕の文書を提出した。察院は彼が本当に七千金を得たと思っていたのでそれを認め、姚君は官を辞して帰郷した。これによって城中は大いに騒がしくなった。司道府県、誰もが敬服して言った、「こんな小さな官職で、賄賂を受けず冤を雪ぎ枉を理め、誠に有司の理想のところすら及ばない」と。そこで皆が厚く贈り物をし、礼をもって送り出した。七人の一族は友人を糾合して三院に呈文を上げ、冤獄を申し雪ぎながら一文も受け取らなかったその盛徳清風は世の模範となるべく、名宦祠に入れることを申し出た。察院は当初致仕を認めた時、彼が七千銀子を真に得ているものと思って帰らせればそれで良いと考えた。しかし三学の公呈を見て、初めて彼が銀を受け取らず、真心から冤を釈放したと知った。大いに驚いて言った、「かかる好人、真に二つとない。ただ私は元来彼に報いたく思っていたのに、帰らせてしまったことで、かえって彼の前途を誤らせてしまった」と。すぐに批准して、名宦祠に入れることを命じた。読者よ、知事が名宦祠に入るなど、古来幾人いたろうか。これこそ徳を行うことへの報いである。帰宅したる時、両袖に清風のみ。孫は州学に入ったものの、家業はまことに衰えていた。家の者は多く、計算がつかないと怨んだ。銀子も稼げず、わずかな小役人の職も失い、損をしたことにならないかと。姚君はただ安らかに笑うのみであった。年は九十余歳に至り、ある日突然夢を見た。五六人の人が青衣に小帽をかぶり、前に跪いて申し上げた、「某等は老爷をお迎えに参りました」と。姚君は夢の中でも、かつて死罪を救ってやった者たちと分かった。問うた、「お前たちは何故ここへ来たか」と。その人々は答えた、「私ども老爷に命を救っていただいて帰宅し、七家の先祖父母が揃って天帝に請い申し上げました。天帝は司命真君に命じて、老爷の寿命を延ばし、さらに老爷の子孫が代々貴顕となるよう定めてくださいました。今老爷の寿命が終わりに近づき、私どもが老爷をお見送りに参りました。外に輿がございます、どうぞ老爷お乗りください」と。姚君は聞き終えて輿に乗った。衆人が担いで、ある衙門の前に着いて輿を降りた。門番が中に報告した。中から一人の官員が出迎えた。姚君がよく見ると、官府の装いではなく、冠冕を戴き袞龍袍を纏っていたので、やっと悟った、「これは閻羅王だ」と。閻王は姚君に礼をして、共に堂に上った。するとそこにはすでに一人の尊官が坐っていた。閻王は姚君に揖して、その尊官の上座に坐るよう勧めた。姚君は辞退して坐ろうとしなかった。閻王は言った、「君は黄承事が范文正公の上に坐った故事をご存知か。ここでは徳を論じるのであり、位を論じるにあらず」と。姚君はそこで上座に坐した。閻王は言った、「君には陰徳がある。昨日天符が降り、君を泰山刑曹に任命するよう申された。君は帰宅して後事を整えられよ。まもなくお迎えが来るであろう」と。そして送り出した。衆人は再び輿を担いで帰った。姚君は伸びをして目覚めると、南柯の一夢であった。翌朝起きると、家の者に向かって言った、「私は昨夜夢を見た。おそらくもう死ぬのだろう。お前たちは日頃私を計算が悪いと怨んでいた。昨夜の夢に、かつて救ってやった冤獄の者たちが迎えに来て、天帝に請い申し上げたゆえ、私の子孫が貴顕になると言った」と。孫を指差して言った、「家を興こす者はこの子ではないか。お前たちはもう貧を憂えなくてよい」と。さらに夢の中の事を詳しく語った。また言った、「閻王が私に言うには、まもなく迎えが来ると。死期が近づいたのは間違いない。湯を用意して、私が沐浴できるようにしてほしい」と。家の者は言葉通りに湯を用意した。姚君は浴び終えて、また言った、「私を迎える者がもう門にいる」と。家中の者は皆、異香が室に満ちるのを感じた。やがて姚君はこの世を去った。孫の名は永済といい、万暦戊戌の進士となり、後に浙江左布政にまで昇った。允許を得て帰郷した。雲仍はみな盛徳を備え、その世業を継ぎ、冠を帯びる家系は尽きることがない。七人が天帝に請い申した言葉は、寸分も違わなかった。徳は陰に行い、報いは顕に受ける。確かに験がある。権にある君子よ、広く方便を行い、子孫に良き謀を遺すことを怠られようか。詩曰く:

かつて聞く、積徳は浮屠に勝ると、況んや浮屠を造るも書きつくせず。

数級すでに四十九に成り、積功は応に百千余に准ずべし。

真に谷を有して孫子に貽すと称し、また高門に戟を建てざるをや。

寄語す当途の諸達者に、好んで丹筆を将いて纓裾に換えよと。